歌麿が大作「品川の月」を描いたのは天明8(1788)年とされています。この頃、彼は蔦重がプロデュースした狂歌絵本に次々と作品を提供し、その後、傑作とされる『画本虫撰(えぼんむしえらみ)』を発表しました。江戸で名が知られ始めていたものの、まだ「美人大首絵(びじんおおくびえ)」が大流行する前で、「誰もが知る存在」ではありませんでした。
そんな時期に、栃木の町人たちは新進気鋭の浮世絵師である歌麿に「雪月花」の制作を依頼します。さらに、彼らは天明狂歌が江戸で大流行する先駆けの時期に、その中心人物である大田南畝(おおたなんぽ)とつながりを持っていました。
当時の江戸文学には「うがち」という理念がありました。これは「人情の機微や世の中の真実を鋭く巧みに表現すること」を意味しますが「流行の半歩先を行く視点」とも解釈できます。この視点を備えた栃木の町人たちは、歌麿の浮世絵や狂歌など最先端の江戸文化を、いち早く積極的に受け入れていたのです。常識にとらわれず、型破りで革新的な行動力を持った「べらぼう」な先人たちの姿が浮かび上がります。
問合せ:歌麿を活かしたまちづくり協議会事務局(蔵の街課内)
【電話】21-2573
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