私は昭和20年、旧久下田町で生まれ、4人きょうだいの末っ子として育ちました。
小学6年生の卒業式の時、校長先生から「皆さんはこれから右手に槍(やり)、左手には棒を持って一生懸命勉強や運動に励むように」という話をいただきました。それは喧嘩をするという意味ではなく、「槍(やり)は何事もやり通すこと、棒は何事も辛抱強く頑張ること」という教えであり、今でも強く印象に残っています。
栃木県農業講習所(現・栃木県農業大学校)を卒業後、昭和41年に農業改良普及員として栃木県へ奉職。当時は食糧増産政策で米の1割増産運動が行われ、地域一丸となり農薬散布による病害虫対策などを行っていました。当時の農薬散布は、有人ヘリコプターで行う地域の一大イベントです。早朝からの仕事を終え、農協婦人部の皆さんが用意してくれたおにぎりがとてもおいしかったのを覚えています。やがて、昭和44年に稲作転換対策が打ち出されました。栃木県は「米・麦、園芸、畜産」の調和が取れた農業を目指します。特に力を入れた政策が「いちご」による園芸振興です。私も、株冷蔵栽培や山上げ栽培などの早期出荷の技術開発のほか、イス式収穫台車の導入、選別箱詰め作業室の改善に携わり、農家の所得増加や農作業の環境改善に奔走しました。
退職後は、地区の公民館長や区長を経験し、小貝川の道祖土橋周辺の河川敷でポピーの栽培活動を地区の人たちと行いました。道行く人が見ごろを迎えたポピーを見て楽しむ様子を見るととてもうれしかったですね。そんな自然豊かな道祖土地区です。今後も地域の皆さんと話し合いながら環境整備を進め、人々が安心して住めるように自分も一員として頑張りたいと思います。
<この記事についてアンケートにご協力ください。>