■那須町と近現代の人々 vol.24
12月号は、伊王野出身の政治家・鮎瀬善太郎を紹介します。
鮎瀬善太郎は、安政2年に鮎瀬淳一郎(令和4年7月号掲載)の次男として誕生しました。
善太郎の青少年期は、叔父を頼りにして大田原で勉学に励んだといいます。学制発布に伴い明治6年に維新館(旧伊王野小学校前身)が開校すると、善太郎も維新館の教員となり、その後同校の第2代校長を務めています。
善太郎は教員を辞すると、明治14年に27歳の若さで伊王野・大和須・睦家・梁瀬の4ヶ村の戸長(今の首長)となります。同17年からは鍋掛・越堀の戸長を兼務し、その後10ヶ村の戸長を兼ねるなど若くして手腕が高く評価されました。明治19年からは那須郡役所に奉職し、明治32年まで勤めています。
善太郎は、県会議員であった父・淳一郎の地盤を引き継ぎ、明治32年に県会議員に初当選すると、途中落選もありながら3期務め、大正11年まで在職し、伊王野の近代化に努めました。県会議員時代には、現在の県道76号線・国道294号線の一部(烏山―伊王野)、県道27号線(黒羽―伊王野)、国道294号線〜県道28号線(伊王野―芦野―黒田原)の道路改修、伊王野村への専売局出張所の設置などに尽力しました。
また、明治43年から大正7年までは、県会議員とともに第5代伊王野村長として村政にあたりました。村長時代には、「伊王野村年中行事」を策定し、経済・教育の振興に力を注ぐとともに、大正5年には村是を制定しました。また、伊王野村の大字単位で村有(そんぜ)基本財産を形成し、村の経済基盤確立に努めました。
善太郎は昭和3年に亡くなりますが、伊王野村の人々は善太郎の功績を後世に伝えるため、善太郎の胸像を昭和26年に建立しました。この胸像は現在も伊王野支所前にあります。胸像は、文化勲章を受章している彫刻家・圓鍔勝三(えんつばかつぞう)による価値あるものであり、伊王野の近代化に尽くした善太郎の功績を振り返りながらご覧いただけたらと思います。
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