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那須の歴史再発見! 那須町と近現代の人々 vol.17

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栃木県那須町

◆山田顕義(1844-1892)
5月号は、黒田原の礎を築いた山田顕義(あきよし)を紹介します。
山田顕義は、弘化元年に長州藩士山田七兵衛顕行の長男として誕生しました。大叔父には萩藩の財政再建に取り組んだ村田清風、伯父には吉田松陰に兵学を教えた山田亦介(またすけ)がいます。
顕義は安政4年に吉田松陰の松下村塾に入門すると高杉晋作らとともに行動し、禁門の変で初陣をとげます。戊辰戦争では、越後口海軍参謀などを歴任しました。
明治4年、岩倉使節団の一員として欧米を歴訪したことで軍事・教育・司法などの分野に強い関心を寄せました。その後明治7年には司法大輔(たいふ)、明治14年には内務卿、明治18年に第一次伊藤博文内閣で初代司法大臣に就任するなど、政府の要職を歴任しました。
また明治22年に日本法律学校(現日本大学)、明治23年に皇典講究所内に國學院(現國學院大學)を創立するなど、次代を担う国民を養成するために学校を相次いで創設し、法曹教育・国文学・日本史研究にも力を注ぎました。
顕義は、明治19年に札幌に山田農場を開設(山田開墾・山口開墾ともいう。明治24年に売却)した後、明治21年に現在の黒田原一帯の官有林野の貸下げが認められ、山田農場を開設しました。山田家ではこれを黒田原農場と呼び、上の原や本町、音羽町などが農場地内でした。音羽町の名は、山田顕義の東京の邸宅があった小石川区音羽町から名付けられたといいます。農場の土地は、顕義の死後である明治26年〜同35年まで払下げが行われ、順次黒田原一帯が山田家の土地となり、農場経営が本格化しました。
顕義は明治25年、兵庫県の生野銀山を視察中に急逝しました。顕義の死後も山田家による農場経営は戦後まで続き、黒田原の開発・発展は進みました。上の原地区には山田家4代への感謝を記した「謝恩碑」が建てられました。この石碑は現在、日本遺産の構成文化財に指定されるなど地域の歴史を語り継いでいます。

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