◆山田英夫(1875-1945)
6月号は前月号に続き、山田顕義(あきよし)の遺志を継ぎ、地元の人々に「殿様」と親しまれた、山田英夫を紹介します。
山田英夫は明治8年、会津藩9代藩主松平容保(かたもり)の3男として誕生しました。兄弟に外交官・宮内大臣、初代参議院議長として活躍した松平恆雄(つねお)、姪に秩父宮妃勢津子殿下、甥に福島県知事を務めた松平勇雄(いさお)がいます。
明治16年、英夫は東京の学校に通うため旧会津藩家老山川浩宅に預けられ、秋月悌次郎(てうじろう)などに学びます。明治29年、陸軍士官学校を卒業すると、明治37年に勃発した日露戦争では、乃木希典(まれすけ)の副官として従軍しました。有名な乃木希典とステッセルの「水師営の会見」の写真にも英夫の姿があります。その後、近衛歩兵第2連隊大隊長などを歴任し、最終的に陸軍歩兵中佐で予備役に編入されました。
明治39年、英夫は山田家の法定相続人となり山田家を相続すると、同年に山田顕義の一人娘・梅子と結婚しました。この結婚には杉孫七郎(すぎまごしちろう)や井上馨の働きかけがあったといい、後年英夫は乃木希典に言われ養子になったとも親戚に語っていたそうです。
英夫は、山田家を相続すると他の那須野が原の華族農場主とは違い、在地地主として直接農場経営に携わりました。小作人との関係も良好であり、小作人が窮状を直訴した際には「一年くらい小作料をとらなくてもよい」と答えたといいます。黒田原の地域住民と良好な関係を築いた英夫の精神は、長男顕貞に引き継がれ、戦後山田家の土地は、那須中央中や那須高校の敷地として提供されました。
英夫は、会津と長州をつなぐ立場にありながら激動の時代を生き抜きました。東京の松陰神社には、英夫が奉納した石灯籠が現在も残されています。また黒田原には山田資料館があり、山田家と黒田原の関わりを知ることができます。この機会に英夫の足跡を訪ねてみるのもいいかもしれません。
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