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那須の歴史再発見!那須町と近現代の人々vol.19

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栃木県那須町

◆小平濱次郎(1869-1955)

7月号は、那須硫黄鉱山株式会社社長である実業家・小平濱次郎を紹介します。
小平濱次郎は明治2年、都賀郡野中村(現栃木市)で戸長を務めた小平重太の長男として誕生しました。父重太は山岡鉄舟と親交があり、濱次郎も門人だったといわれています。
濱次郎は、明治21年に栃木県立第一中学校(現県立宇都宮高校)を卒業後、東京高等商業学校(現一橋大学前身)を経て、明治27年に長崎商業学校(現長崎市立長崎商業高校)の教諭となりました。同年日清戦争に従軍し、明治28年には日本郵船株式会社に入社しましたが、明治37年に日露戦争が勃発すると再び従軍し、乃木希典の指揮下で経理などを担当しました。日露戦争後は、明治40年に明治製糖株式会社(現DM三井製糖HD)に入社し、その後独立して那須硫黄鉱山株式会社を経営しました。
那須硫黄鉱山株式会社は、大正4年に噴気孔に石の煙道を作り硫黄ガスを導いて、硫黄を固形化する方法を開発しました。この方法により純度996%の硫黄を精製することが可能となり、昭和8年に那須は、全国第9位の硫黄産出額(2,117トン)を誇りました。また採掘した硫黄は鉱山事務所から弁天温泉前まで自動索道、そこから那須湯本まで土橇(どぞり)で運搬しました。土橇で硫黄を運搬する光景は、当時那須の観光の目玉でもあり、絵葉書にその様子が遺さています。硫黄採掘は産業・観光の両面で那須の経済をけん引していました。
また濱次郎は昭和天皇との関係も深く、大正15年には、当時皇太子であった昭和天皇が那須硫黄鉱山事務所を訪れ、昭和6年には昭和天皇・鈴木貫太郎侍従長に濱次郎も同行して茶臼岳を登山しています。
濱次郎の死後、硫黄鉱山は衰退をたどり廃鉱となりました。鉱山事務所跡地は、現在峠の茶屋駐車場として観光客に利用されています。茶臼岳登山の際には、硫黄鉱山の痕跡を探すのも一計かもしれません。
(写真は土橇で硫黄を運搬する様子)

問合せ:那須歴史探訪館
【電話】74-7007

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