■那須町と近現代の人々 vol.30
6月号は、医者として京都を中心に地域医療に貢献した田代勉三を紹介します。
勉三は、明治25年4月15日に芦野町寄居(山中)の田代穆・センの三男として生まれました。父・穆は、慶応元年に生まれ、明治17年に済生学舎や順天堂医院で学び、23歳の時に医師になった人物です。釜子村や白河町(現白河市)、山中で診療所や眼科医(明晴堂眼科医院)として地域医療に貢献しました。また、弟・郁郎は芦野町第14代町長や那須郡森林組合長などを歴任し、妹・トイは、高浜虚子に師事し「ホトトギスの4S」と並び称された、俳人の阿波野青畝の妻にあたります。
勉三は、明治35年3月に寄居小学校、同39年に白河高等小学校を卒業し、同年4月に大田原中学校に入学しました。同41年に山形県の庄内中学に転校、大正3年に石川県の第四高等学校に入学し、大正6年に京都帝国大学医科大学に入学しました。
同大学卒業後は大学に残り、皮膚病学黴毒(ばいどく)学研究室に入り、松本信一・松浦有志太郎から皮膚科・黴毒学・泌尿器科などについて学びました。勉三は、昭和3年に医学博士の学位を取得し、同大学の助教授に就任しましたが、翌年退官し松浦医院の院長に就任しました。
松浦医院は、松浦有志太郎が京都市に開設した皮膚科・泌尿器科の医院でした。松浦の社会活動(禁酒、廃娼運動など)の多忙さ、高齢、勉三が松浦の娘と結婚していたこともあり、勉三が院長を引き継ぎました。勉三は昭和49年に亡くなるまで、松浦医院を経営すると共に、昭和14年には京都施薬院院長(現京都市立病院)を兼任するなど、京都市内外における地域医療に貢献しました。
また勉三は、寄居小学校や芦野小学校にオルガンやピアノ、顕微鏡などを寄付し、郷里の教育水準を高める活動にも熱心に取り組んでいました。
生涯を通して地域への貢献を貫いてきた勉三の姿は、現在の社会にも通ずるものがあるといえるでしょう。
※肖像写真(本紙参照)は、『那須郡市医師会のあゆみ』より引用。
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