■那須町と近現代の人々 vol.37
1月号は、芦野出身の教育者、政治家の相馬助治を紹介します。
相馬は、旧交代寄合旗本芦野氏家臣の家に明治44年3月に生まれました。弟に神奈川県議会議長などを歴任した相馬元治がいます。昭和6年に、栃木県師範学校本科(現宇都宮大学共同教育学部)を卒業し、黒磯小学校訓導、東京市平塚小学校(現在小中一貫校となり閉校)訓導、栃木県立日光高等女学校(現日光明峰高校)、同今市中学校(現今市高校)でも教員を務めました。教員時代には、『児童心理とお母様の心構へ』(昭和16年)、『子供の見方と躾方』(昭和17年・共著)などの出版を通して、自身の教育理論を広めました。
昭和21年、栃木県教員組合の結成に関わると初代副委員長に就任し、後に委員長となりました。また、関東地方教職員組合中央委員長、栃木県地方労働委員なども歴任し、労働運動の分野にも力をいれました。
昭和22年、第23回衆議院議員総選挙に栃木県1区から無所属で出馬するとトップで初当選しました。後に日本社会党に入党すると、「自転車競技法(通称・競輪法)」の議員立法での制定に参画しました。昭和24年の選挙では落選したことから翌25年の参議院選挙に出馬し当選すると、以後2期12年務めました。その間、議員立法での「旅行あつ旋業法」制定に尽力するとともに、国会内では商工委員会理事、予算委員会理事、文教委員会委員長などを歴任しました。文教委員長時代には佐久山出身の書道家・豊道春海が関わった日本芸術院会員増員問題に対処しました。昭和35年に民主社会党結党に(後に民社党)参画すると、同党の栃木県連委員長に就任しましたが、昭和37年、同40年の参議院選挙に落選し国政に復帰することはかないませんでした。
相馬は剣道二段の腕前を持つとともに、俳句を師範学校時代から嗜んでいたといいます。相馬の墓は西光寺にあり、現在も那須町から全国の教育・文化振興・労働運動の行く末を見ているのかもしれません。
問合せ:那須歴史探訪館
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