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那須の歴史再発見!

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栃木県那須町

■那須町と近現代の人々 vol.39
3月号は、日光市出身で、戦時中芦野に疎開していた水彩画家・牧野正吉を紹介します。
牧野は、明治38年8月2日に現在の栃木県日光市に生まれました。大正14年に青山師範学校本科第一部を卒業すると、教職に就くかたわら、本郷絵画研究所で画業を学ぶとともに、石井柏亭、赤津隆助、加藤静児に師事し、日本水彩画会に出品を続けました。昭和3年、23歳のときに同会会員に推挙されると、同5年には「南豆風景」で第9回帝展に入選、同8年には第20回二科展に「高原の路」で入選するなど活躍を続けました。
昭和11年、牧野は初めて尾瀬に行くと、たちまち尾瀬のとりことなり、生涯をかけて尾瀬を描き続けました。戦後には尾瀬をテーマにした個展を上野・松坂屋で開催するなどしています。
昭和8年、牧野は本郷区駒本小学校図画専科訓導となりますが、徐々に戦争の影が忍び寄ってきます。昭和19年、牧野は同校の学童集団疎開責任者となり、児童・教職員合わせて約150人を引率し、芦野に疎開しました。(このとき伊王野村、両郷村にも分かれて疎開したといいます。)芦野町への疎開に関しては、芦野町助役であった三森一郎氏が尽力したといいます。黒田原駅に着いたときには、黒田原国民学校児童の歓迎を受け、芦野に到着すると赤飯がふるまわれ歓迎を受けました。児童らの疎開先は建中寺・最勝院があてがわれ、牧野は建中寺の学寮長として疎開生活を送ることとなりました。児童によって疎開期間は異なりますが、短くても7カ月、長い時には1年6カ月疎開していたといいます。
昭和21年4月、学童集団疎開は引き揚げとなりますが、牧野はその後もたびたび芦野を訪れ、芦野の風景をスケッチし、水彩画や油絵を描きまし個展を実施するなど、那須町との縁を大切にしました。
現在、那須高原には多くの芸術家が居住していますが、牧野はその先駆け的存在であったと言えるかもしれません。

問合せ:那須歴史探訪館
【電話】74-7007

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