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文化の泉宝物(たからむん)No.44

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沖縄県南風原町

■南風原の歴史文化を伝える「宝モノ」南風原の織物と「第5回内国勧業博覧会」
今でこそ町の特産品として名を馳せる「琉球絣」や「南風原花織」ですが、明治の頃に作られていた織物はどんなものだったのでしょうか。
一二〇年前の明治三十六(一九〇三)年に、南風原で製作された織物が「第五回内國勧業博覧会」に出品されていたことを記す資料があります。南風原町が「南風原間切」の時代です。その中に、製作した喜屋武村、照屋村、本部村の人たちの名前が十人確認できます(表参照)。おそらく現在染織物業に携わっている方々の祖先ではないでしょうか。
その博覧会は、大阪の天王寺で一五〇日間にわたり開催されました。農業館、林業館、工業館、通運館、機械館、教育館、美術館、参考館、台湾館などのパビリオンや第二会場には水族館なども併設されたようです。
全国から集められた各地の織物は、「工業館」で展示されました。その中に南風原間切で生産されていた織物が展示されていたというわけです。その頃南風原で織られていたものは「白木綿」が主だったようです。作品はすべて「白木綿」です。同じ時代に色のついた毛糸を使った花織ティサージも作っていたと言う証言もありますが、「絣織物」がまだ小禄、垣花、豊見城、泊あたりで盛んに作られていた頃だと思われます。
「第五回内國勧業博覧会」といえば、「人類館事件」が有名です。その年から八年前は、日清戦争があり、翌年には日露戦争開戦という戦争の時代を背景に、富国強兵、殖産興業の進展とともに近代化の到達点を示す国家の威信を賭けた大プロジェクトでした。第四回よりも規模は大きくなり、新しい技術の展示に多くの人々が集まる中、余興として民間パビリオンの中に「学術人類館」に生身の人間たちが展示された事件でした。
身体的特徴、生活習慣、技術、思想などちがいのすべてが「人間」であるはずですが、当時企画した側から見た「七種の固有の土人」(その中に琉球の婦人がいました)を多くの人たちに観覧させるという人類館開設の趣意書が『東京人類学会雑誌』に掲載されているようです。
その同じ会場での、織りの技術を駆使し出品した南風原の先人たちの名前を拝見すると、複雑な思いに駆られます。「琉球人」「沖縄人」としてたどってきた時代や歴史をすべて淘汰してきた現在の織物産業や織物文化が目の前にあることにあらためて感動します。(平良)
※表は広報紙11ページをご覧ください。

問合せ:南風原文化センター
【電話】889-7399

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