文字サイズ
自治体の皆さまへ

文化の泉 宝物(たからむん)No.56

17/37

沖縄県南風原町

■2つの石碑と子どもたちがつなぐ歴史と絆-学童疎開から80年-
南風原文化センターのそばに建つ「南風原国民学校学童集団疎開記念碑」。これは、南風原の学童疎開体験者らが2009年に建てたものです。
今から80年前、沖縄に戦争の足音が近づいてきた1944年夏、政府は子ども、女性、高齢者を本土へ疎開させる決定をしました。しかし、その頃すでに沖縄近海は危険な状況でした。8月には疎開船対馬丸が沈没し、多くの命が失われたことはよく知られています。
実は、南風原の子どもたち97人も対馬丸に乗る予定でした。しかし、直前で降ろされ、同じ船団の和浦丸に乗って出港し、米軍の攻撃を避けてなんとか熊本県にたどり着きました。そして、対馬丸沈没は秘密にされたまま、翌9月にのこりの南風原の子どもたち124人が宮崎県へ疎開しました。
疎開先では、親元を離れての辛い生活が約2年間も続きました。子どもたちは、道に落ちているミカンの皮までも食べ、夏物の服のまま厳しい寒さと霜焼けをこらえ、沖縄玉砕ということ以外何も知らされず不安な2年間を耐えました。帰郷後、沖縄に残った家族が全滅したことを知り、戦後を苦労して生き抜いた人もいました。
沖縄戦は地上戦の悲惨さが注目されますが、学童疎開は「もうひとつの沖縄戦」といえます。この歴史を継承するため、今年度、町内の小学校6年生が参加する子ども平和学習交流事業では学童疎開についての学習を深め、疎開先である宮崎県を訪問します。そして、受入先のひとつだった宮崎県日向市からは毎年中学生の交流団が南風原町を訪れ、町内の中学生と交流会を行い、一緒に学童疎開の歴史を学んでいます。
実は、この日向市にも「南風原学童疎開記念の碑」があります。これは、疎開当時苦しい生活を送る南風原の子どもたちに何もしてやれなかったから、という思いで、日向市の有志の方々が建てたものです。これまで体験者と受入先の人々との交流が続いてきましたが、近年は高齢化もありそれも難しくなってきました。しかし、たくさんの思いが込められた2つの石碑と、両地域の子どもたちが、その歴史と絆を引き継いでいます。(前城)

◎南風原町の「南風原国民学校学童集団疎開記念碑」
◎日向市の「南風原学童疎開記念の碑」
※詳細は広報紙11ページの写真をご覧ください。

問合せ:南風原文化センター
【電話】889-7399

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU