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文化財コラム

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沖縄県西原町

■沖縄戦時下の西原
「西原は激戦地だった」という話は、西原町で育った方なら聞いたことがあると思います。沖縄戦当時の西原はどういう状況だったのでしょうか。
昭和二〇年、米軍は、三月二六日に慶良間諸島へ、四月一日には沖縄本島の北谷・読谷の海岸から上陸しました。この時、日本軍は、水際(みずぎわ)での交戦を避け、首里城地下の軍司令部を中心として、浦添―宜野湾―西原―中城の丘陵(きゅうりょう)地帯に陣地を敷き、持久戦に備えていました。米軍は上陸開始から八日後には日本軍司令部を目指して宜野湾の嘉数を始めとした、日本軍の主要陣地へと進出してきます。
西原には、石部隊(昭和一九年八月から駐屯)や、榴弾砲(りゅうだんほう)等の大砲を備えた砲兵部隊がおり、四月上旬以降、上原や棚原、幸地で熾烈(しれつ)な戦いとなっていきます。四月二三日夜に日本軍は、戦線整理を行い、石部隊は浦添の前田へ移動し、山部隊が西原に配置されますが、この時前田へ移動した石部隊の戦力は二分の一以下になっていたようです。五月四日には、日本軍の総攻撃が行われ、西原においても、幸地・棚原・翁長・呉屋・小波津一帯で戦闘が展開されます。しかしこの総攻撃は失敗し、西原では山部隊の将兵二千人のうち生存者が約百人余という結果に終わりました。生き残った日本兵は運玉森まで撤収し、戦線は南下、五月中旬に運玉森が陥落(かんらく)するまで西原はまさに激戦地となり、結果、焼け野原となってしまいます。
一方、その激戦のさなか、西原の住民はどうしていたのでしょう。米軍上陸後、しばらく村内の壕や墓に隠れていた方もいましたが、戦いが激しくなるにつれ、多くの方が島尻へと避難しました。しかしその避難した人たちが更なる戦禍(せんか)に巻き込まれていったことは、皆さんもご存知かと思います。
激戦地西原。七八年前の四月から五月にかけてのまさにこの時期の中部戦線における一進一退の攻防戦は、米軍戦史でも「戦史上もっとも熾烈(しれつ)な血みどろの戦闘」と表現される程で、米軍は宜野湾の嘉数から首里城までのたった五キロを約一カ月半かけたことになります。その渦中に西原があったことを、忘れてはなりません。
参考資料:『西原町史』第一巻「通史編」/西原町教育委員会・『戦史叢書沖縄方面陸軍作戦』/防衛庁防衛研究所戦史室

お問い合わせ:文化課 文化財係
【電話】944-4998

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