■むかしのにしはら
私たちが住む西原町。むかしの西原ってどうだったのだろうと思ったことはありませんか。
むかしのことは、今のように写真や映像が残せるわけではなく、むかしの西原の詳細を完全に知ることはできません。しかし、今に残る過去の手がかりをもとに、推測することはできます。
まず、手がかりのひとつに、遺跡があります。遺跡は、人の活動の痕跡(こんせき)が残っている場所のことです。現在確認されている西原の遺跡は、出土した遺物などから、グスク時代と呼ばれる一二世紀前後から一六世紀頃の時代以降のものが多いことがわかっています。
また、西原には青灰色の泥岩(クチャ)とそれを母体としたジャーガルという土壌が広がっています。この土は、耐水性が強く、稲作などにはとても適しているようです。
これらのことから、西原の地は、農業の発達に伴ってジャーガル地帯が開発され、水田地帯が広がり、人の生活の場となっていったのだろうと考えられています。
そういえば、西原は「サトウキビ」の村ではなかったか。稲作?水田?と思う方もいるかもしれません。
西原がサトウキビ、糖業の村となったのは、明治時代のころで、琉球王国時代は王府の穀倉地帯(こくそうちたい)として重要な役割を担う稲作の村でした。このことについては、一六世紀頃から、文字記録が残されるため、手がかりが増えてきます。一七世紀半ばに編集された『琉球国高究帳(りゅうきゅうこくたかきわめちょう)』によると、当時の西原間切(間切:現在でいう市町村にあたる沖縄独自の行政区画単位)の水田石高は、間切石高の約七割を占めていることが記録されています。これは、中頭・島尻地方でもトップクラスの水田地帯であり、当時の西原がまさに「稲作の村」であったことがわかります。
文献資料だけでなく、現代に生きる私たちの生活の中においても、「稲作の村」であったことがわかる手がかりがあります。それが、伝統行事です。古くから残る集落では、稲藁を使った綱引が受け継がれていたり、稲の生長を祈願したり、収穫を感謝するウマチー祭祀等、稲作に由来する伝統行事が残っています。
稲穂が広がっていたであろうかつての西原から姿形は変わり、住宅街が広がっている今の西原ですが、五穀豊穣の祈願や感謝を大切にする精神や心は変わらず受け継がれています。
※参考文献:『西原町史第一巻 通史編』/西原町教育委員会・『沖縄大百科事典』/沖縄タイムス社
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