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自治体の皆さまへ

【特集】慰霊(いれい)の日(1)

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沖縄県那覇市

■78年前にあったこと
アジア・太平洋戦争のさなかの昭和19年、沖縄に日本軍の航空基地が配備されました。米軍による空襲が激しくなるなか、翌年4月には、米軍が読谷海岸より上陸、南北に進軍します。約3か月にわたり繰り広げられた沖縄戦。空からの攻撃に加え、陸からは銃や大砲、火炎放射器が容赦なく街を焼き、海からは艦砲射撃が撃ち込まれました。

首里に置かれた日本軍司令部は、米軍の猛攻を受け5月には摩文仁方面へ撤退を開始しますが、南部一帯には住民が多く避難していたため、この地に軍隊と住民が混在することに。激しい地上戦のなか、武器を持たない多くの民間人が犠牲になりました。

牛島満司令官は6月23日に自決、その日に沖縄戦の組織的戦闘は終わったとされていますが、住民の被害は各地で続きました。沖縄戦では、軍人よりも多くの住民が命を落とし、県民の4人に1人が死亡したと言われています。

■私たちにできること
戦後78年が経ち、長く保たれてきた平和の中で戦争を強く意識することは少なくなってきたかもしれません。しかし、78年き前の出来事は現在の沖縄の姿にも大きく影響しています。
今を生きる私たちにでることは何かを考えました。

取材/秘書広報課
【電話】862・9942

■識者インタビュー
琉球・沖縄史教育、平和教育を専門とする新城俊昭・沖縄大学客員教授に、沖縄戦を知ることの意味と私たちにできることについて話を聞きました。

沖縄大学客員教授 新城 俊昭さん
あらしろ・としあき
1950年生まれ。著作に「琉球・沖縄史」「2045年のあなたへ」など。現在沖縄大学の客員教授として「琉球・沖縄史教育」「平和教育」の研究及び講演活動を行っている。

◇未来に対する責任
戦後生まれの私たちは、平和とともに先行世代の負の社会遺産を相続しています。先の大戦がどういう戦争だったのか、客観的に見つめ評価するという未来に対する責任を担っているのです。

◇過去に目を閉じる者は現在にも盲目である
ドイツのヴァイツゼッカー大統領の「過去に目を閉じる者は、現在に対しても盲目である」という言葉があります。何十年前のことであったとしても、過去にあったことと向き合う姿勢は、あなたの現在起きていることに向き合う姿勢につながっています。過去への認識は目の前の現実への態度も決めます。仮に日本兵がしたことや集団自決に対して仕方がなかったという態度を持つ人がいるとしたら、現在なにかが起きた時にも仕方がなかったという態度をとるはずです。過去の出来事に真剣に向き合い、いけないことだったという認識を持っていれば、現在の態度もそのようなものになるはずです。

◇平和への努力
戦争体験の聞き取り中、戦争が起こったらどうすれば命を守れるのか聞いた私に、ある方は言いました。「戦争を起こさないこと以外に命が守られる方法はない」と。ひとたび戦争が開始されると、命は守れない。だから戦争を起こさないための努力をしなければならないのだと。
平和には努力がつきものです。日常生活の中で人権意識を持って、自分も社会の一員として平和の土台を作っていく。その積み重ねが社会を形成しています。興味があるとか好き嫌いではなく、私たちはできることをやらなければならないのです。

平和と戦争を両極とし、現実はその濃淡の中を変化します。いま、コロナ禍により社会や経済が不安定になり、以前より世の中の空気が戦争側に寄っているように感じられます。自分や他人の命を粗末に扱ったり、他国を軽んじたりすることなどもそれにあたるでしょう。相手を理解しようとする態度が私たちに求められています。

戦後50年を過ぎたころから、戦争の実相を伝えなければいけないという使命感に駆り立てられ、証言が増えてきました。語るのにそれだけの時間を要したのだと思います。これからの十数年が肝心です。戦争証言を直接聞くことのできる、最後の十数年です。渡嘉敷島で、家族を手に掛けた男性(当時16歳)は、「自らの手で愛する者の命を断つ事は、狂った形においてではあるが、唯一残された愛情の表現だったのです」と、証言しています。私たちはどういう戦争だったのかを知り、評価し、後世に確実に伝えていかないといけません。

体験した人の思いは分かっているようで、わかっていない。わかるはずもない。戦争を体験するという事はそういうことです。本当の辛さ、恐ろしさ、魂に受ける衝撃を私たちはわかっていないのです。それでも、知ろうと努力し、後世に伝え、平和の土台を作っていく責務が私たちにはあるのです。

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