■「ウトロの歴史を通じて私たちの人権を考える」~2024.11.25愛荘町人権教育推進協議会研修から~
2022年4月に開館したウトロ平和祈念館は、日本と朝鮮半島、在日コリアンの歴史、そして様々な困難を乗り越えともに歩んできた日韓市民の思いを伝え未来へとつないでいくための祈念館です。今回副館長金秀煥(キムスファン)さんにお話を伺いました。
▽ウトロ地区の戦後までのあゆみ
京都府宇治市にウトロ地区という集落があります。1940年、当時の政府が京都飛行場建設を推進し、その工事に多くの朝鮮人が労働者として集められました。強制連行ではありませんでしたが、徴用や貧困から逃れるため軍事飛行場の建設に従事しました。1945年の日本の敗戦による解放後、京都飛行場は米軍によって解体され、多くの朝鮮人たちが故郷に帰りましたが、帰国しても経済的な理由から帰国できなかった労働者とその家族は、このウトロ地区を第二の故郷として互いに助け合いながら生きていくことになったのです。
ウトロの人々は最初に1945年9月に久世初等学院を開設し、民族の言葉と文化を取り戻すための民族教育を開始しました。1948年以降GHQと日本政府の方針によって閉鎖されますが、その後、公立の小倉小学校内に民族学級が設置されました。京都飛行場用地は、陸上自衛隊大久保駐屯地の設置や民間への払い下げが行われましたが、ウトロに残された人々への対策はなされませんでした。大雨が降ると床下浸水に悩まされるなど、日本社会から「置き去りにされた」まちとなりました。そのような中でも、ウトロ地区に多くの在日コリアンが流入します。劣悪な生活環境であっても、助け合いながら生活できる協力体制ができていました。
▽新しいまちづくりへ
このような事実を知った日本の市民たちが、「深刻な人権問題」としてウトロの人々と協働し、生活改善を求める運動が1980年代中盤から始動しました。1988年には上水道が整備されましたが、住民たちが知らないところで土地が売却され、所有者となった企業が強制退去を求め重機とトラックで押し寄せてきました。住民たちは必死に抵抗しましたが、2000年に最高裁で住民側の敗訴となりました。2001年には国連社会権規約委員会がウトロの立ち退き問題に関する是正を日本政府に勧告しました。住民と支援者は福祉と住環境整備のための自主的なまちづくりに取り組み、何度も議論を重ねて行政にも要望書を提出しました。また、ウトロの訴えが韓国にも届き、2005年にはウトロ国際対策会議が結成され、ウトロの土地購入のための市民募金運動も大々的に始まりました。世論が大きく動いた結果、韓国市民15万人が参加することで韓国政府も動かしました。2007年韓国の国会がウトロ支援金の支出を可決し、日本においても、募金運動は展開され、在日コリアン社会を含め日本各地からの支援が続きました。ウトロの土地の一部を買い取る合意書が締結され、強制退去の危機から脱出しました。こうした流れの中で、国土交通省と京都府、宇治市が、住環境整備などまちづくりを合同協議する「ウトロ地区住環境改善検討協議会」が設置されました。
ウトロ地区は、在日朝鮮人への無理解や無関心、地域の中での孤立など、様々な苦難と困難に見舞われました。
しかし、住民たちが団結し、声を上げ続け、その問題を知った国内外の多くの人たちがともに動きました。民族や国、世代を超えて、人々の想いがひとつになったことで、問題を解決に導きました。ウトロの歴史を通して、私たち一人ひとりが、他人事や損得感情でなく、隣人と繋がる社会を意識することが大切だと学びました。
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