[日野歴史探訪]
私たちの住む日野町には、52の大字があり、それぞれの地域が豊かな自然と歴史文化で彩られています。
温故知新では、町内各大字の歴史と代表的な文化財をシリーズで紹介していきます。
◆大字小御門(こみかど)
大字小御門は、必佐地区の中央やや東寄りに位置し、区域の南端近くを出雲川(いずもがわ)が西流しています。その出雲川右岸を中心とする緩やかな扇状地(せんじょうち)が区域の南半分を占め、北半分は中位段丘面(ちゅういだんきゅうめん)が占めています。
名の由来は、江戸時代の地誌である『蒲生旧趾考(がもうきゅうしこう)』によると、南北朝時代に亀山(かめやま)天皇の第5皇子である五辻宮守良親王(いつつじのみやもりよししんのう)が、小谷山城主蒲生(がもう)氏を頼り、当地に居住し、後に同親王が小御殿と称されたことが由来であるとされています。
また『蒲生一郡記(がもういちぐんき)』では、当村はもともと中村といい、出雲川の水が入り込むことで「込門(こみかど)」と俗称したとされています。
江戸時代には、東海道の土山宿(甲賀市)と中山道の小幡(東近江市)の間を結ぶ脇往還(後の御代参街道(ごだいさんかいどう))が区域を通り、人や物の往来が頻繁だった様子をうかがえます。
◆古代から中世の小御門
古墳時代の終わりごろにかけて、数多くの古墳が造られました。大字小御門字口山(くちやま)に存在する小御門古墳群は、丘陵上に立地する六世紀後半から七世紀初頭の遺跡で、昭和40(1965)年に、3〜4基で一群をなす、合わせて10基の円墳(えんぷん)が発見されました。この発掘調査は、日野町で初めて行われた専門家による本格的な調査でした。
その内の1基は、複数の柱と梁桁(はりけた)からなる骨組みと、壁に粘土を用いた土蔵のような部屋で火葬を行い、それに土をかぶせた「横穴式木芯粘土室しつ墳(よこあなしきもくしんねんどふん)」という特殊な構造の古墳でした。この時期の一般的な古墳が石室を用いたのに対し、その構造の違いや、仏教的な要素の強いとされる火葬が行われていることから、渡来系の集団によって造られたものと考えられています。
中世になると、出雲川の右岸段丘上(うがんだんきゅうじょう)の平地である大字小御門字城屋敷(しろやしき)に居館的機能が主体の小御門城跡が出現します。
昭和57年以降に行われた発掘調査で、溝跡から出土した黒色土器・陶器・輸入磁器・木製下駄などにより13世紀前半を中心とした12世紀後半から16世紀の遺跡であることがわかりました。
築造当初、一辺が約100メートルのほぼ方形の主郭と、東方に約70メートルの堀で区画された台形の付属施設から構成されていたとされる小御門城は、15世紀に行われた改修によって、東西約155メートル、南北約100メートルの規模になったと推定されています。
この改修では、堀の付け替えや延長などによる城内の拡張や、主郭に2条の堀を新設するなどの大改修を行っていることから、複数の堀と土塁(どるい)によって防衛機能を高めた平城的機能を備えたことがわかっています。
中世の主要な街道をおさえる立地であることなどから、蒲生氏との関係が考えられます。
問い合わせ先:近江日野商人ふるさと館「旧山中正吉邸」
【電話】0748-52-0008
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