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歴史は未来の羅針盤 温故知新

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滋賀県日野町

[日野歴史探訪]
私たちの住む日野町には、52の大字があり、それぞれの地域が豊かな自然と歴史文化で彩られています。
温故知新では、町内各大字の歴史と代表的な文化財をシリーズで紹介していきます。

◆大字北畑
日野町の東端に位置する大字北畑は、北は奥師・西明寺、南は熊野・蔵王と接し、町内最高峰である綿向山を含む、東西に大きく伸びる地域です。綿向山の山頂には大嵩(おおだけ)神社があり、綿向山信仰の中心として広く崇敬(すうけい)を集めています。
北畑の地名の由来は、かつて馬見岡綿向神社(うまみおかわたむきじんじゃ)(村井)の氏子圏(うじこけん)であった熊野・蔵王・北畑が三畑と称され、三畑のうち北側に位置することが由来とされています。また「日本書紀」において、のちの雄略(ゆうりゃく)天皇である大泊瀬皇子(おおはつせのみこ)が、兄の市辺押磐皇子(いちのべのおしはのみこ)を討った「来田綿(くたわた)の蚊帳野(かやの)」が当地であると言われ、この「来田綿」が変化したとされる説もあります。
当字の鎮守(ちんじゅ)である八幡(はちまん)神社のほか、山岳信仰と関わりのある佐久奈度(さくなど)神社、国の天然記念物に指定されている「綿向山麓(わたむきさんろく)の接触変質地帯」など、綿向山の豊かな自然に抱かれた、歴史を伝える重要な地です。

◆八幡神社の文化財
北畑の集落北西に位置する八幡神社には、町指定を含む複数の文化財が伝わっています。
昭和37(1962)年に町指定文化財となった石造宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、総高148・5センチメートルで、切石の基壇上に建てられており、笠の一部に欠損があるものの、相輪(そうりん)まで完存する立派な宝篋印塔です。この塔には銘文が刻まれており、正安(しょうあん)元(1299)年のものであることがわかっています。数多く石塔が伝わる町内でも、最古の石塔の一つとして数えられます。
また、注目すべき点として「村人敬白」と刻まれていることが挙げられます。村民の願いから造立(ぞうりゅう)されたことを示すこの銘文によって、鎌倉時代には北畑の集落の原形が成立していたと考えられ、村民のあつい信仰と、地域の結束力をうかがい知ることができます。
また、八幡神社には八幡神の本地仏である阿弥陀如来(あみだにょらい)像が伝わっています。かつて神と仏は一体であるという神仏習合の考えによって、多くの仏像が神社でまつられていましたが、明治時代の神仏分離令によって廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が進むと、神社の中から仏教色が失われていきました。そのような中で、八幡神社では阿弥陀如来をそのまま神像として残しており、今に神仏習合の名なごり残を伝え続けています。

◆綿向山麓の接触変質地帯
綿向山の麓には、変質岩と呼ばれる岩石が露出した場所があり、この一帯が「綿向山麓の接触変質地帯」と呼ばれています。
ここで見ることのできる変質岩とは、白亜紀(1億4500~6600万年前)に、石灰岩と粘板岩(ねんばんがん)にマグマが接触した際に熱エネルギーによって性質が変化した岩石です。大理石や珪灰石(けいかいせき)・ザクロ石などの接触鉱物が作られました。こうした変成による典型的な接触鉱物が確認でき、地質学的に貴重であることから、昭和17(1942)年に国の天然記念物に指定されました。

問い合わせ先:近江日野商人ふるさと館「旧山中正吉邸」
【電話】0748-52-0008

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