―日野歴史探訪―
私たちの住む日野町には、52の大字があり、それぞれの地域が豊かな自然と歴史文化で彩られています。
温故知新では、町内各大字の歴史と代表的な文化財をシリーズで紹介していきます。
◆大字中之郷(なかのごう)
大字中之郷は、佐久良川の中流に位置し、北は奥之池(おくのいけ)・杣(そま)、東は小野(この)、南は奥師(おくし)・鳥居平(とりいひら)、西は佐久良(さくら)と接しています。佐久良川中流域一帯とされる奥津保(おくつのほ)(奥野保)の中央に位置していることが地名の由来になっていると考えられています。
また、集落の北方には、中之郷と大字奥師の郷社(ごうしゃ)である長寸(ながす)神社があります。当社は、『延喜式(えんぎしき)』「神名帳(じんみょうちょう)」に記載のある蒲生郡「長寸神社」に比定されています。古くは山崎宮とも称され、「江州蒲生上郡(ごうしゅうがもうかみぐん)奥野保(おくつのほ)山﨑鰐口(やまざきわにぐち)」の銘をもつ応永(おうえい)28(1421)年の鰐口(町指定文化財)が伝わっています。
◆中之郷に伝わる阿弥陀来迎図(あみだらいごうず)
阿弥陀如来(あみだにょらい)は西方浄土の教主とされ、白雲に乗って人々を極楽浄土へ迎える図のことを、阿弥陀来迎図といいます。阿弥陀来迎図には、多数の菩薩を従える阿弥陀聖衆(しょうじゅ)来迎図、阿弥陀のみを描いた阿弥陀独尊来迎図、観音、勢至(せいし)の二菩薩を脇侍(きょうじ)として従える阿弥陀三尊来迎図などの種類があります。
中之郷区に伝来する阿弥陀来迎図は、中央に阿弥陀、下左右に二菩薩を配した三尊来迎図で、南北朝(なんぼくちょう)時代の作です。鎌倉時代以降の来迎図は早(はや)来迎と呼ばれ、浄土から迎えに来る早さを意図したものが多くなります。本図も、白雲が流れるように描写され、その意図を表現しているといえます。
本図は、往時の流行をとらえた、南北朝時代の貴重な作品として、昭和51(1976)年に町指定文化財となりました。
◆観音堂の4軀(く)の仏像
正住(しょうじゅう)寺跡と伝えられる観音堂には、十一面観音立像(じゅういちめんかんのんりゅうぞう)、不動明王(ふどうみょうおう)立像、毘沙門天(びしゃもんてん)立像、地蔵菩薩(じぞうぼさつ)立像の4軀の仏像が伝わっています。
平安時代の作と考えられる十一面観音立像と両脇侍の不動明王立像・毘沙門天立像は、いずれも後世に補修の手が入っており、補作によって大切に受け継がれてきたことがわかります。中でも毘沙門天像が踏み付けている邪鬼(じゃき)は、平安時代当初のままで、古仏の様相を今に伝えており貴重です。
地蔵菩薩立像は、前後に二材製とする寄木造(よせぎづくり)の像です。平安時代末期の特徴である穏やかな雰囲気をもちながらも、やや険しい表情や衣文の表現から、作風の変化もみられ、鎌倉時代初期の作と考えられています。
◆中之郷の古文書
大字中之郷文書には、道の開削(かいさく)に関する文書が伝わっています。
鳥居平村と中之郷村はともに道路状況に課題をかかえており、両村を結ぶ新道の開削が望まれていました。
明治15(1882)年、中之郷・鳥居平両村が杣・杉(すぎ)・川原(かわら)・原(はら)各村と協議を行い、県へ「新道開削願」を提出しました。翌、明治16(1883)年に工事許可を得ましたが、同年に発生した大干害(かんがい)や、その後の情勢を理由に延期せざるを得ませんでした。
その後、明治21(1888)年に、中之郷・鳥居平・杣・杉・川原・原の6か村が改めて新道の開削を計画しました。予定工費総額は760余円で、寄付金額を記した「道路改修篤志人名録」から、6か村の住民からの寄付だけでなく、中井源左衛門(なかいげんざえもん)や鈴木忠右衛門(すずきちゅうえもん)など近江日野商人たちや旧永源寺町域の村々からも寄付があったことがわかります。
本道の区間を含む日野‐市原(東近江市)間の道は明治中期ごろに整備され、道路状況は改善されていきました。
地域の人々のつながりや、近江日野商人が大切にした陰徳善事(いんとくぜんじ)のこころをうかがい知ることのできる史料です。
問い合わせ先:近江日野商人ふるさと館「旧山中正吉邸」
【電話】0748-52-0008
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