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写真でたどる ふるさと再発見 No.62

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滋賀県甲良町

【学校の二宮金次郎さん】
小学校の校庭にあったもの。あなたは何を記憶していますか。
琵琶湖の庭園、百葉箱、二宮金次郎さんの銅像等々。どれも懐かしく思い出されますね。
特に背中に薪を背負い、本を読みながら歩く二宮金次郎像は、みなさん記憶にあると思います。
写真左は西小学校の金次郎像です。正面玄関向かって右側に建っています。写真右は東小学校にあった像で、旧木造校舎曳家移転に伴い、今は図書館玄関向かって左側に建っています。西小の像は、少しポッチャリ、東小は細身で、その表情も少し違いますね。二体とも銅像でなく、陶器で出来ています。
金次郎さんは、江戸時代末期の人です。農民から後に武士となり尊徳(たかのり)と名乗りました。現在の小田原市の地主の家に生まれましたが、異常天候による災害で財産を奪われ、父母は心身疲労で相次いで死去、没落します。しかし、そんな逆境にもめげず勉学に励み、農業に卓越した才能を発揮し、家の再興を果たします。その後、農村指導者としての改革手腕が老中水野忠邦に認められ600もの荒れ果てた農村や諸藩の再建を果たしました。明治以降、渋沢栄一をはじめ近代日本を創り上げていった人々が深く尊敬していた農政家・思想家です。人々は敬意をこめて「そんとく」と呼んでいます。
なぜ、金次郎さんの銅像が小学校に置かれたのでしょう。
それは、明治に入り金次郎さんの伝記が明治天皇に高く評価され、明治37年(1904)小学校の修身(戦前の道徳教育)の教科書に登場、そして明治44年「二宮金次郎」という歌が文部省の「尋常小学唱歌(第二学年)」に採用されたことによります。それが昭和に入ると「勤労と勤勉」の象徴として日本全国の小学校に建てられることにつながりました。

▽金次郎さんの赤だすき
日中戦争が始まり、資源が乏しい我が国では国民は金属類を国家に供出することとなり鉄、銅、アルミの台所用品にまで及びました。そして昭和18年(1943)には祭礼用の叩き鉦や梵鐘などが供出されていきます。写真のように東小学校では玄関脇にあった二宮金次郎の青銅像も供出されることになり、忠魂碑の前で赤だすきをかけ、子ども達の万歳に送られ出陣していきました。それで、陶器の像に変わった訳です。

「骨身を惜しまず仕事を励み
夜なべ済まして手習読書
せわしいなかにもたゆまず学ぶ
手本は 二宮金次郎」
※「二宮金次郎」二番の歌詞より

参考資料:日本の百人「二宮金次郎」、横関史

問合先:ふるさとプロジェクト(図書館)
【電話】38-8088【FAX】38-8089

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