【江州番方講】
下之郷区の西應寺では、湖東の真宗寺院約100ヶ寺の代表が集まり、7月には「番方講虫干し法要」、11月には「番方講記念法要」が行われています。西應寺には、番方講に関わる様々な法物が集積されており、その遺徳を顕彰するために昭和28年から行われている行事です。
番方講は、八代目宗主の蓮如上人(1415~1499)の時代に始まります。
蓮如上人は、親鸞没後廃れる一方であった浄土真宗を立て直し、天台宗の寺々を次々に真宗寺院に変えていきました。危機感を募らせた延暦寺は「民衆を惑わす邪宗・仏敵」として、大谷の本願所を襲い破却してしまいます。(寛正の法難1465)
やむなく、蓮如は、新たな布教地を求めて越前に旅立ち、門徒衆は、蓮如不在の間、親鸞の御真影を延暦寺に奪われないよう、交代で番をしました。その人々が「番衆」と呼ばれ、蓮如からは「番方講」という名前をいただきました。
番方講が最も活躍したのは「石山合戦」の時です。
戦国時代、今、大阪城が建っているところには、信者二千万人の浄土真宗石山本願寺がありました。
天下統一を目論む織田信長は、戦国大名以上の脅威である本願寺を潰すべく、様々な工作を図ります。
元亀元年(1570)、本願寺からの立ち退きを求めた信長に対し、第11代宗主顕如上人は挙兵を決意し、近江の門徒衆に助成を求めます。その呼びかけに応え、石山合戦に馳せ参じる中郡(なかのごおり)番方講(蒲生・神崎・愛知・犬上・坂田)の門徒衆を率いたのが、西応寺の了覚(りょうがく)でした。了覚は元、多賀氏の家老で、居城の下之郷城を信長に焼き滅ばされた怨念もその背景にあったことでしょう。
石山合戦は、門徒衆の激しい抵抗で11年にも及び、最後は正親町天皇(おおぎまちてんのう)の仲介による和解によって終わりました。(天正8年1580)
西応寺の境内には、石山合戦における番方講の奮闘を伝える記念碑が本願寺司教によって建立されています。(昭和7年)
戦乱の収まった江戸時代以降、石山合戦に結集した門徒衆は、番方講を真宗護法の組織として維持し、現在に至っています。
「浄土真宗の今日あるのは、全て番方講のおかげである」として歴代門主からいただいた御消息が西應寺に安置されています。
参考文献:「復刻版(2)番方講由緒」「下之郷の歴史」
問合先:ふるさとプロジェクト(図書館)
【電話】38-8088【FAX】38-8089
<この記事についてアンケートにご協力ください。>