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KUSATSU 歴史ギャラリー[No.193]

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滋賀県草津市

■浮世絵「忠臣蔵」歌川国清(草津市蔵・中神コレクション)
時は元禄15(1702)年12月14日。折しも降りしきる雪を、サクッサクッ…踏みしめて行く47の影。めざすは主君浅野内匠頭の仇(かたき)、吉良上野介の屋敷…。
静寂を破る合図の鉦(かね)!「おのおの方、討ち入りでござる!」「浅野内匠頭家来、主の仇討!」。
「忠臣蔵」の物語は、江戸時代元禄年間に実際に起こった「赤穂事件」を題材にして上演された浄瑠璃作品「仮名手本忠臣蔵(かなてほんちゅうしんぐら)」を基にしています。
「赤穂事件」とは元禄14(1701)年3月14日、江戸城松の廊下で起こった赤穂藩主浅野内匠頭が高家(こうけ)吉良上野介に切りかかるという刃傷事件に端を発し、目的を果たせず即刻切腹、御家断絶となった浅野内匠頭の仇を打つため、翌年、家老大石内蔵助(おおいしくらのすけ)を筆頭に浪人となった家来が吉良邸に討ち入った事件です。幕府内部でも、喧嘩両成敗の原則に外れ、お咎めのなかった吉良上野介に対し、正義を貫いた家来に賛同する声もあり、徒党を組み、不届きとしながらも武士として面目の立つ切腹の判断が下りました。このことは事件の起こった当初から庶民の話題に上り、討ち入った浪士側を称賛し、たちまち人形浄瑠璃など数々の作品に描かれました。しかし、幕府から「戯場にても近き異事を擬する事なすべからず」との禁令が出されたのです。
その後、断絶していた吉良家は、宝永7(1710)年、分家の蒔田義俊(まきたよしとし)が吉良姓を名乗ることを許されます。同年に浅野家も浅野内匠頭の弟・浅野大学長広(あさのだいがくながひろ)が旗本職に復帰しており、断絶した両家は奇しくも同じ年に再興されました。
同年齢であったこの2人が相次いで亡くなったその数年後、事件から47年がたち、いよいよ寛延元(1748)年、義太夫浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」が大阪で初演され、一躍人気を博します。舞台を室町時代としたこの作品は、赤穂事件を取り上げていると知れる絶妙な設定と創作が相まって、歌舞伎の演目としても取り入れられる人気作品となったのです。
本陣四季彩々・冬の段「忠臣蔵~赤穂事件その後~」では、浮世絵に描かれた「忠臣蔵」の展示を行います。ぜひご覧ください。

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