■草津市誕生を企てた昭和の「本陣」
草津市は今年で市制施行70周年を迎えます。10月15日は市制を施行した、いわば草津市の誕生日。この市制施行をめざす話し合いは、現在の草津宿本陣でも行われていました。
そもそも草津市域の区画は、江戸時代までさかのぼると36もの村に分かれていました。明治時代には地方制度の変化に伴い、何度か区画が整理され、明治22(1889)年4月に現在の市域にかかる草津村、志津村、老上村、山田村、笠縫村、常盤村、治田村の七カ村がそれぞれ成立。明治28(1895)年には草津村が町制を敷き、草津町となりました。それから昭和29(1954)年までこの区画は変わりませんでした。それまでに合併の話は何度か持ち上がりましたが、実現には至りませんでした。
昭和28(1953)年に町村合併促進法が施行されると、翌3月には草津町、志津村、老上村、山田村、笠縫村の一町四カ村(人口27,332人)で新しく草津町を造成する案が立てられました。さらに話し合いを進めるうち、常盤村を加えると市になるための条件である人口3万人を超えるということで、町ではなく新市建設をめざすことになりました。ただ、この新市の人口の規定が、翌年10月の法改正で5万人以上に引き上げられることになっていたため、合併協議に参加していた新市建設派は、夜を徹して会合をしたり、当時の自治庁との打ち合わせは全て飛行機で往復するなど、可能な限り迅速な協議・手続きを行いました。先にも述べたとおり、市制施行は10月15日ですから、草津町造成の発案から、わずか半年で、草津は市制施行にまで至ったのです。
写真は、当時の草津宿本陣です。昭和29年に撮影されたこの写真では、草津公民館として利用されていた本陣の表門の前に「志津村草津町老上村山田村笠縫村常盤村合併促進協議会々場」「手を取ろう境を取ろう隣村合併でよりよき郷土をつくりましょう」と書いた看板が掲げられています。「本陣」は江戸時代には大名や役人など限られた人たちの休泊施設でしたが、元来、戦(いくさ)の総大将がいるところを指していました。このときの草津宿本陣はまさに、草津市誕生をめざす「本陣」としての役目を果たしていたといえるでしょう。
※写真は本紙P.15をご覧ください。
問合せ:草津宿街道交流館(草津三)
【電話】567-0030
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