■茶陶(ちゃとう)をプロデュース!姥餅焼(うばがもちやき)
近江は古くから東西交通の要衝として発展し、街道を通じて多くの文化が行き交った場所でした。その道にあって旅人にひとときの癒しを与えたのが草津名物「うばがもち」です。「瀬田へ廻(まわ)ろか 矢橋へ下ろか 此処(ここ)が思案のうばがもち」という歌がある通り、その分岐点に店がありました。立地条件に恵まれていた姥ヶ餅屋は、数多くの旅人でにぎわい、街道の文化が育まれる場となっていきました。
近江の焼き物の一つに数えられる「姥餅焼」は、その店で使う餅皿を焼いたのが始まりとされています。往来の休憩所として親しまれ、訪れる人々との交流の中で、八代目当主瀬川都義(くによし)は広く茶道、文芸を志し、親交を深めていきました。
寛政11(1799)年に京都の儒学者、皆川淇園(みながわきえん)が記した姥ヶ餅屋の由来書「養老亭記」によると、自宅に築山を設けて庭を造り、茶室を設けて来駕(らいが)の諸公や諸貴人に、衣服・茶器の類を披露していたようです。寛政9(1797)年に出版された『伊勢参宮名所図会(いせさんぐうめいしょずえ)』には広い庭園をともなった姥ヶ餅屋養老亭の景観が描かれ、庭園を眺める旅人や駕籠(かご)に乗って訪れる人々の様子が表されています。
膳所藩主本多康完(やすさだ)などとも茶会を催していた都義は、茶の湯で使う陶器の茶陶にも興味を抱き、自らも草津に窯を築くとともに、当時の名陶工にも『姥餅』の窯印を預け、茶碗や水指(みずさし)、香合(こうごう)などの茶道具を「姥餅焼」として焼き始めるようになりました。
こうして、瀬川都義によって茶陶へと発展した「姥餅焼」は、楽焼(らくやき)の九代・了入(りょうにゅう)など、京や信楽の陶工にも作陶を依頼していたとされます。中でも楽焼には名品が多く、了入作と伝えられる水差しは、了入の特徴である斜めに走るヘラ削りがみられ、名匠の作品の風格をもっているといえるでしょう。後の十代目当主金沢好澄(こうちょう)もまた風流文化人であり、同様に『姥餅』の窯印を預け、各地の名陶写しを焼くなどしたようです。『姥餅』の刻印をもった陶器はまさに玉石混交(ぎょくせきこんこう)、それぞれの時代の流行を映す作陶作品が含まれています。
近江を代表する茶陶「姥餅焼」は一つの地域で作陶されたものではなく、草津名物「うばがもち」の生んだ文化サロンを発信源とする、街道文化が創り出した茶陶ともいえるものでした。
問合せ:草津宿街道交流館(草津三)
【電話】567-0030
【FAX】567-0031
<この記事についてアンケートにご協力ください。>