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ふるさと再発見 Re:discovery Omihachiman 第58回

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滋賀県近江八幡市

■まちのなまえ(7)
「島」—島の由来と内湖—

今回は、「島」地域の名前の由来を紹介します。
現在の島学区は、円山町、白王町、島町、北津田町、中之庄町、長命寺町、沖島町、大中町からなり、本市の北西部に位置しています。島学区の前身である島村は、明治22(1889)年に市制町村制が施行され、奥島村、中之庄村、円山村、長命寺村、白王村、北津田村、沖島村の7か村が合併し誕生しました。合併以前に行われた地券調査で全国的に町村間、地所が入り交じり、境界がはっきりしない場所が多くあったことから、政府は明治5(1872)年に「旧来一村のうち分界を立て、取り扱い来たり候(そうろう)村々」の統一を進める布告を出し、翌6(1873)年に大蔵省は独立村落の合併も積極的に奨励しました。島学区は、これらの動きに対し、明治7(1874)年に長命寺門前を長命寺村へ改称、同8(1875)年に円山村と日牟禮新田を合併し円山村に、同12(1879)年に白部村と王之浜村が合併し白王村としました。
島学区の変遷を見ると、古代の島学区のあたりは『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』に大島郷の名称が記載されています。場所は明確ではありませんが、大島・奥津嶋神社を中心とした地域と推定されています。11世紀後半以降に成立していく荘園は、津田庄、奥島庄、三村庄があり、現在の島学区を複数に分けるように成立しています。津田庄は、現在の北津田町、中之庄町、南津田町の領域に相当し、奥島庄は、現在の島町、白王町、円山町の領域に位置した荘園です。三村庄は、領域がはっきりしていませんが、篠笥(ささき)郷と大島郷にまたがる領域であると考えられています。このように、島村の由来は、他の学区のように、古代から中近世にかけて付けられた郷名や庄名の名前がないことから新しく付けられた名称で、沖島と湖中にある島の村々が合併することから名付けられました。現在の島学区は陸続きですが、かつて島学区の周囲には琵琶湖と、西の湖、大中の湖、津田内湖の3つの内湖が存在し、昭和時代の干拓により現在の形になっています。
さて、島と名付けられたゆえんである内湖のうち、津田内湖について紹介します。津田内湖の干拓は、大中の湖の干拓の約20年後の昭和42(1967)年に起工式、同44(1969)年に干陸する計画の国営干拓事業でした。干拓事業は食料増産を目的に進めていましたが、津田内湖干拓の竣工直前になると米の増産が進み、「食の近代化、欧風化」とともに米の消費量が減少し、余剰米が発生したため国は「減反」を行いました。津田内湖の干拓は、「内湖に戻す」「スポーツセンターのグラウンドにする」という主張も出る中で進められ、入植者たちは水田ではなく畑作化を求められました。現在の干拓地には運動公園があるほか、果樹団地構想など積極的な活動がみられます。

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