■まちのなまえ(8) 「馬淵」—馬淵の由来と岩倉の石工(いしく)—
今回は、「馬淵」地域の名前の由来と、「岩倉」の歴史を紹介します。
現在の馬淵学区は、明治22(1889)年4月1日の町村制施行に伴い、馬淵村、東横関村、千僧供村、東川村、上畑村、倉橋部村、浄土寺村、新巻村、長福寺村が合併してできた馬淵村を前身とします。その後、昭和29(1954)年3月31日に村制が廃止され旧近江八幡市に編入されました。その際に他の学区同様、旧村名である「馬淵」が学区名として残りました。
「馬淵」という名称を探ると、鎌倉時代初期まで遡(さかのぼ)ります。近江守護・佐々木定綱の長男・廣綱(ひろつな)が、建保6(1218)年10月に、幕府から「近江國松伏別府の地」を与えられました。この地が、江戸時代頃の馬淵村、千僧供村、岩倉村、長福寺村付近にあたる場所で、「馬淵庄」だとする説があります。廣綱の死後、弟である五男・廣定(ひろさだ)がその地を継ぎました。廣定は馬淵氏を号し、その後続く馬淵氏の元祖となりました。いつからそう呼ばれたか、馬淵氏と名乗りだしたことと地名のどちらが先か、そもそも「馬淵」という言葉がどこからでてきたのかなど、今のところ明らかになっていません。しかし、承久3(1221)年6月10日の尊長法印遺領(そんちょうほういんいりょう)目録の中に「馬淵庄」とみえることから、その時までには地名としての「馬淵」という名称が定着していたと考えられます。
名称の由来は不明ですが、歴史を調べると、その地の特徴を感じさせる地名もあります。岩倉山(瓶割山の西方尾根)は、古来より良質な石材が取れる場所として知られ、麓には、石材加工を専門とする石工と呼ばれる職人が多く住む集落・岩倉村がありました。山の名称は、集落にちなんだものといわれています。平安時代末期の書物に「岩蔵(倉)山」とみえることから、古くから石、岩との関わりが知られていた地であることが推測できます。岩倉の石工は、安土城の石垣や、京都・三条大橋の建設に関わったといわれています。岩倉村は、町村制施行より先んじた明治12(1879)年の時点で馬淵村に合併され、現在は字名が残っています。
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