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ふるさと再発見 Re:discovery Omihachiman 第53回

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滋賀県近江八幡市

まちのなまえ(2)
「老蘇」
—老蘇の森・奥石(おいそ)神社—
今回は、「老蘇」地域の名前の由来を紹介します。
この地域は、江戸時代に東老蘇・西老蘇・内野・石寺の4つの村があり、明治22(1947)年にこれら4つの村と清水鼻村(現東近江市五個荘清水鼻町)が合併し、「老蘇村」となりました。新しい村名は、古来より名高い「老蘇の森」に由来して名付けられています。
老蘇の森は、万葉の時代からすでにその名が知られる場所で、明治24(1949)年に国史跡に指定されました。また、当森は歌枕の地としても有名で、万寿元(1024)年、大江公資(おおえのきんより)が相模守(さがみのかみ)に任じられ、任地へ赴く途中にこの地で詠んだ「あづまぢの、おもひでにせんほととぎす、おいそのもりの、よはの一こゑ」をはじめとして、ホトトギスや思い出、老いの哀しみを森に掛けたものなど、当地を詠んだ和歌が数多く残ります。
この森がいつ頃からあるのかということは、はっきりとは分かりません。ですが、至徳元(1384)年9月の奥付を持つ『奥石神社本紀』には、次のような伝承が残っています。「昔老蘇の森一帯は、地裂け、水が湧き、人の住める場所ではありませんでした。しかし、石辺大連(いしべのおおむらじ)という人物が松や杉や檜(ひのき)の苗を植え、神々に祈願すると、たちまち大森林になった」といわれています。
これが老蘇の森であり、石辺大連が生きながらえて百数十歳の年齢を重ねたため、老が蘇(よみがえ)るの字を当てたとも伝えられています。「老蘇」という字のほかに、『新古今和歌集』では「老曽」、『源平盛衰記』では「追初」という形で表現されています。
この森の中には、「奥石神社」が鎮座しており、老蘇の森を鎮守の森としています。奥石神社は、『延喜式(えんぎしき)』神明帳に載る式内社で、近世には鎌大明神・鎌宮と称されていましたが、大正13(1924)年に『延喜式』にちなみ、現在の名称に改名しました。
老蘇の森の伝承を記載する『奥石神社本紀』によれば、一帯が大森林となった際に石辺大連が社壇を築き、崇神天皇の代に四道将軍・吉備津彦が社殿を造営したことが、当社の始まりであるとされています。
本殿は、三間社流造(さんげんしゃながれづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)で、棟札の写しから天正9(1581)年の建立であると考えられています。また、本殿の西側に建つ諏訪社本殿は、一間社流造の檜皮葺で、具体的な年代を示す史料は見つかっていませんが、様式などから17世紀前期の建立であると推定されています。
本殿は、明治35(1902)年4月17日に国の重要文化財、諏訪社本殿は、平成15(2003)年3月7日に安土町指定文化財(現近江八幡市指定文化財)に指定されました。

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