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ふるさと再発見 Re:discovery Omihachiman 第55回

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滋賀県近江八幡市

まちのなまえ(4)
「金田」—金田と六角氏のつながり―

今回は金田学区に焦点を当て、中でも学区名である「金田」の由来と、それに深くかかわる「金剛寺町」の由来を紹介します。
現在の金田学区は、明治22(1889)年の市町村制施行に伴い、金剛寺、西本郷、鷹飼、上田、杉森、長田、西庄、浅小井の8村が合併してできた金田村を前身とします。金田学区は、佐々木氏と深いつながりがあります。佐々木氏とは、近江国守護(おうみのくにしゅご)に任じられ、鎌倉時代から室町時代に近江を治めた一族で、「近江源氏」「宇多源氏」の名で知られています。宇多天皇を祖先にもち、その孫である成頼(なりより)の代に近江に下り、さらにその孫の経方(つねまさ)の代に佐々木庄(ささきのしょう)を任せられた役人となったことから、佐々木と名乗るようになりました。繁栄した佐々木氏一族は、やがて総領家である六角氏の他、京極氏、高島氏、朽木氏、尼子氏などに分かれていきました。
鎌倉時代末期、佐々木六角氏の頼綱(よりつな)が、家臣・金田七郎の土地であった現在の金田小学校付近に別館を構えたといわれています。それが金田館と称されたことから、この地域は金田といわれるようになったようです。頼綱の子・時信(ときのぶ)、さらにその子・氏頼(うじより)が順に跡を継ぎます。そして時信が亡くなった際に、氏頼は父の菩提(ぼだい)を弔うためこの地に寺を建立したのですが、この寺が金剛寺と名付けられました。金剛寺という名は、佐々木氏の祖先・宇多天皇の戒名を金剛覚(こんごうかく)と称されたところから頂いたと伝えられています。応仁の乱以降、佐々木六角氏は室町幕府と対立します。そのような状況の中、佐々木六角氏は金田館を城として整備します。それが、寺に倣って名付けられた金剛寺城だといわれています。しかし文明元(1469)年、六角氏と京極氏による佐々木氏間の合戦で焼失したことが、『山科家礼記(やましなけれいき)』の文明2(1470)年9月8日条にある「既に金剛寺城落ちる」という記載からうかがえます。その後、文明18(1486)年に再興しますが、織田信長の近江侵攻により、金剛寺、金剛寺城は佐々木六角氏滅亡とともに焼失したと考えられています。
このように、金田学区を名称からたどると、近江中世史の中心となる佐々木氏と、深いつながりをもつ地域であることが分かります。

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