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ふるさと再発見 Re:discovery Omihachiman 第56回

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滋賀県近江八幡市

まちのなまえ(5)「北里と仁保」
仁保(にぼ)川(日野川)、鳰(にお)の湖(海)、仁保橋という言葉を見聞きすることがあると思います。現在の北里学区にあたる地域は、かつて仁保(邇保)と称されていました。今回は、この「仁保」について詳しくみていきます。
仁保という名称が使用されるのは、古代までさかのぼります。大宝2(702)年、大宝律令が公布され中央集権的な政治体制が組織されると、地方行政組織も整備され、国(こく)・郡(ぐん)・里(り)(のち郷(ごう)となる)が編成されることとなります。当地は、野洲郡邇保郷と称され、平安時代中期の書物の『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』でも確認できます。また、平城宮跡から出土した木簡に「野洲郡尓保郷□」とあります。この木簡とともに出土した別の木簡に、神亀(じんき)年間(724年~729年)から天てん平宝字(ぴょうほうじ)年間(757年~765年)と記されたものがあるため、この頃すでに「仁保」という名称が使用されていたことがわかります。「仁保」という名称の起源には諸説ありますが、『古事記』に「邇本杼理乃阿布美能宇美(にほどりのあふみのうみ)」と記されており、この邇本杼理が、琵琶湖の異名「鳰の湖」にちなむものといわれます。この「邇本」が「仁保」となったと考えられます。鳰とは、カイツブリの古名です。
中世になると仁保郷の範囲に仁保荘が成立します。南北朝時代のものと推定されている「賀茂御祖社社領目録(かもみおやしゃしゃりょうもくろく)」に近江国「邇保庄」とみえ、この時期は京都下鴨神社領であったことが伺えます。
そして、明治22(1889)年の町村制の施行に伴い、江頭村・十王町村・小田村・野村・佐波江村の五ヶ村が合併して北里村が成立します。村名の北里という名称は、野洲郡の北側に位置していることから名付けられました。北里村はその後、昭和30(1955)年に近江八幡市と合併し、現在の北里学区へと至ります。その後、丸の内町と水茎町が新たにできました。
さて、北里学区が野洲郡に位置していたことは条里(じょうり)制からもみることができます。条里制は、古代に設定された土地管理のための制度で湖東地域では北から南に向かい一条・二条と数え、東から西に一里・二里と進んで数えていきます。蒲生郡の条里方向は、北から東へ約55度傾いていますが、野洲郡は北から東へ約33度に傾いた地割となっており、北里学区もこちらとなります。当地域の条里の地割や呼称を示す絵図が3点あり、現在も確認することができます。今回はその内の1点『迩保荘(にぼのしょう)絵図』を紹介します。本絵図の製作年代は不明ですが、室町時代後期頃と推定されています。この絵図には条里の数字だけでなく、地名や天王樋(てんのうひ)、牟礼(むれ)神社、小田神社といった現在も確認できる地名や建物も記されており、北里学区の歴史を考えるうえで貴重な史料であるといえます。

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