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ふるさと再発見 Re:discovery Omihachiman 第57回

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滋賀県近江八幡市

まちのなまえ(6)「桐原」
—桐原の由来と篠原駅—

今回は「桐原」地域の名前の由来と、篠原駅について紹介します。
この地域は、明治22(1889)年に中小森、八木、森尻、古川、安養寺、池田、東、竹の8つの村が合併し「桐原村」となりました。村名は、この地域が古くから「桐原郷(きりはらごう)」と呼ばれていたことに由来します。
桐原郷は奈良時代からある郷名で、平安時代の書物である『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』に記載されている近江国蒲生郡九郷のうちの1つです。「郷」とは古代の行政区画の1つで、郡内の1区域のことを指します。この郷は正確な位置こそ分かっていないものの、池田本町、森尻町にある八反田遺跡からは、「桐原」と墨書された土器が出土しています。
また、奈良市の平城京跡二条大路の遺構からは「勘富(がまふ)郡桐原郷益国里」、竜王町のブタイ遺跡からは「桐原郷薏原史(いはらのふひと)」という墨書がある、荷物に付けられた木簡(付札木簡)が発見されています。これは、この郷から近隣の地域に向けてさまざまな物資が届けられたことを示す、重要な資料です。
鎌倉時代には郷内に坂本日吉社(現在の大津市日吉大社)の荘園である桐原保(ほ)が成立するなど、中世以降も「桐原」という名称は継承されました。そして昭和29(1954)年、蒲生郡八幡町ほか4つの村と合併して近江八幡市となり、現在の桐原学区へと名称が引き継がれています。
この地域は古くから農業も盛んで、昭和2(1927)年に桐原村に住む人が新調したという墨書がある、水田に給水する水を汲(く)み上げるために使用した揚水(ようすい)車(蛇車(じゃぐるま))など、農業に関わる道具類が何点か残されています。これらの農具は、江頭町などにあった「和泉屋(いずみや)」を屋号とする大型農具を生産する工場で新調されたものであることが分かっており、地域同士のつながりが窺(うかが)えます。
学区内の上野町には、「篠原駅」が設置されています。大正7(1918)年9月に、東海道線八幡~野洲両駅間に新停車場を設けるべく、蒲生郡桐原村と岡山村、野洲郡北里村の各村長が中心となり、新駅の設置運動が開始されました。当時の新聞記事によると、開業4か月前の大正9(1920)年12月の時点では、「東海道線の新設駅は近江上野と命名す」と記載がありましたが、大正10(1921)年4月20日の開業時には、現在の駅名になりました。同駅は、市内を通るJR東海道本線の3つの停車場の1つであり、令和3年度の『滋賀県統計書』によれば、1日平均旅客乗員人数は約2000人で、今も多くの人々が利用する駅となっています。

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