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ふるさと再発見 Re:discovery Omihachiman 第61回

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滋賀県近江八幡市

まちのなまえ(10)「安土」
—豊浦(といら・とようら)・香庄(このしょう)・慈恩寺(じおんじじ)—
今回は安土学区内に焦点を当て、その中でも「豊浦」「香庄」「慈恩寺」の地名について紹介します。
まず豊浦は、安土山・繖山(きぬがさやま)・竜石山(りゅうせきざん)に囲まれた平野部一帯に定められた地名です。古くは、上豊浦(かみとようら)村と下豊浦(しもといら)村を併せて豊浦といい、その読み方は「トイラ・トヨウラ」のほか「トヨラ・トユラ」とも呼称しました。天平感宝元(749)年閏(うるう)5月、奈良県の薬師寺に聖武天皇が寄進した「豊浦百町の水田」が前身となり、中世には「豊浦庄」となりました。この頃、安土町に位置する西の湖は安土山の南に湾入していたとされ、その湖岸は「豊浦庄内海」と呼ばれており、下鴨社(京都市左京区)や坂本日吉社(大津市)の漁場があり、「猪隈関白記(いのくまかんぱくき)」建仁元(1201)年8月条によると、当地の漁業について両社が争論を起こしています。天正4(1576)年、織田信長による安土城築城の際は、この辺りは城下町に含まれており、特に下豊浦は町の中心となりました。その際には正神町や本町、池田町といった名前が残ることから、町屋が形成されたと考えられます。これらの地名は、安土城下を移したとされる八幡城下町に、同一あるいは近似する名前の地区がみられます。このことからも安土から八幡へ、町が引き継がれていったことが伺えます。
次に香庄について紹介します。この地名は、平安時代末期に見られる「香御園(こうのみその)」の後身と思われる荘園名の「香荘」に由来します。室町時代には勝宝院(京都市右京区)や南禅寺(京都市左京区)の所領であったことが知られますが、その荘園の範囲は明らかになっていません。しかし、香庄という名称は江戸時代から明治22(1889)年まで「香庄村」または「香之庄村」という形で継承されていきました。
最後に慈恩寺について紹介します。この地名は、かつて地内にあった慈恩寺に由来します。慈恩寺は、延文から康安(1356~1362年)頃に開かれ、佐々木六角氏の当主である氏頼が、母の菩提のために建立したとされる律宗寺院です。その後廃寺となりましたが、その跡地には現在も見られる楼門が残ったとされています。そして、天正5(1577)年に織田信長が開創した浄土宗寺院の浄厳院が同地に建てられました。その本堂は、市内多賀町にあった興隆寺の弥勒堂を同年に移築したものだと伝えられています。また、地内の小字金剛寺には、古くより「金剛寺」という寺院があったと考えられており、近年まで土塁などが確認出来ました。安土城築城時は、豊浦と同様にこの辺りも城下町の一部に組み込まれます。そして時代が下り、八幡城下町形成時にはこの慈恩寺も、村の住民がそちらへ移り住んだことで、現在まで残る「慈恩寺町(元・中・上)」が成立しました。

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