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ふるさと再発見 Re:discovery Omihachiman 第63回

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滋賀県近江八幡市

■まちのなまえ(12) 「八幡(2)」—宇津呂村と八幡町—
かつて、八幡学区に宇津呂(うつろ)村という村があったことはご存じでしょうか。宇津呂村(現在の市井・多賀・北之庄・宇津呂・中村・土田町あたり)は昭和初期までありました。現在は、八幡小学校付近の町名として宇津呂の名が残っています。
この「うつろ」の名を呼び始めた時期はわかっていません。しかし「宇津呂」の文字は正安4(1302)年の長命寺文書に「宇津呂美乃公」と記載があり、少なくとも中世には用いられていることが分かります。宇津呂は、鎌倉期に佐々木氏の宇津呂公文所(くもんじょ)が設けられたことが由来ともいわれており、この公文所は、近江国を治めた佐々木一族、佐々木信綱(のぶつな)の子である四兄弟の一人、京極氏と関係があります。京極氏に仕えた家系の子孫である貞高(さだたか)が、宇津呂氏と呼ばれており、宇津呂庄を治め宇津呂殿とも呼ばれていました。宇津呂殿は、現在の中村町字大殿(おおどの)あたりに居館を築いたと伝わっています。
なお、宇津呂村は昭和初期に隣接する八幡町と合併しています。合併の声があげられたのは明治期までさかのぼりますが、合併には至らず、本格的に動き始めたのは昭和6(1931)年からとなります。この時、八幡町側では大正期から合併を進めていた山本小太郎町長が再選し、合併を進めていました。しかし町会議員による反対や協議会での流血の乱闘騒ぎ、県知事宛ての合併反対陳情書が提出され反対の動きをしています。一方、宇津呂村側は賛成の意を希望していましたが、過去の経験から円満に進行しないのではないかという懸念がありました。村長と村会議員の間で合併実現に向け努力することを申し合わせ、昭和8(1933)年になると宇津呂村側はいくつかの条件をもとに合併に賛成しました。この頃になると、八幡町側で反対しているのは有産者階級であるとの記録も残っていますが、大多数が合併に賛成し、合併推進運動も行われています。その後町村間で合併の条件である11項目を記した「誓約書」が結ばれます。八幡町側の反対論は根強くあったものの、県知事より「反対運動は八幡町の富豪階級によるものが多く、町民の一部であり、大多数は反対していない、今後反対者に反省を促し円満な町自治の発展を期待する」という回答を得たことから、同年3月、現在の八幡学区にあたる八幡町が誕生しました。その後、八幡町は周辺の町村と合併が続き、現在の近江八幡市となります。

※「貞高」の「高」は環境依存文字のため、置き換えています。正式表記は本紙をご覧ください。

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