■古(いにしえ)写真館(10) 人々のくらし・生活を取り巻く変化
明治時代から現在に至るまで、高度経済成長期の到来やバブル景気、交通手段の変化などさまざまな出来事が起こりました。そういった社会情勢を通して、私たちのくらしぶりは大きく変化しました。その中には、今も昔も変わらずに見られるものもあれば、今は見られなくなった物や光景などがあります。
昭和30~40年代は高度経済成長期に当たり、「三種の神器」と呼ばれる洗濯機・テレビ・冷蔵庫が登場するなど、電化製品の発明や機械化が人々の日常生活に大きな変化をもたらしました。その影響は、市内の農村地域で生活や仕事を行う際に使われた道具(民具)にも波及します。
江戸時代初期に、大阪の農具商が発明したとされる揚水車(蛇車(じゃぐるま))は、写真のように羽根の付いた車の上に人が乗り、羽根を踏んで回転させ、用水路や河川から田へ水をくみ上げる道具です。現在の北里学区にあった「和泉屋(いずみや)」を屋号(やごう)とする大型農具の生産工場でも製作されていたことが、現存する資料から判明しています。
それまで主流であった、竜骨車などの水田に灌漑水(かんがいすい)を入れるために用いる道具と比較しても、排水量が多く扱いやすいことから、昭和30年代まで県内を含む多くの地域で使用されていました。しかし、発動機を動力としたバーチカルポンプが一般の農家まで普及していくとともに、揚水車はその役割を終え、姿を見ることはなくなりました。
次に紹介する古写真は、西国(さいごく)三十三所観音霊場の札所(ふだしょ)の一つ、長命寺付近の風景です。
明治時代以降、琵琶湖の運輸・交通は新たな輸送手段として登場した汽船の時代となり、明治5(1872)年には、長命寺港と大津・米原を結ぶ蒸気船が就航されました。明治15(1882)年には、琵琶湖上で長距離航路を運営する多数の会社が合同し設立された太湖(たいこ)汽船会社の営業航路として、長命寺なども含まれたルートが設定されています。そのため、長命寺には、多くの参詣者が大津などから写真のような蒸気船に乗って訪れ、港や門前町は、観光客や釣りをする人たちなどで大きなにぎわいをみせていました。
しかし、明治22(1889)年には東海道線、大正2(1913)年には湖南鉄道(現近江鉄道八日市線)が開通し、鉄道交通が発達することで遠隔地へ訪れることや、大人数での旅行が気軽にできるようになりました。また、昭和30~40年代には自動車が社会に普及し、観光客の多くは自家用車や観光バスで長命寺などを訪れるようになっていきます。こういった交通手段の変化が、湖上交通の需要を減少させる一因となり、長命寺港に訪れる人々を乗せた蒸気船も衰退していきました。
1.揚水車(蛇車)を使う様子(個人提供)
2.長命寺港に寄港する太湖汽船(山本晃さん提供)
※写真は本紙をご覧ください
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