■古(いにしえ)写真館(11) 内湖と干拓事業
かつて琵琶湖の周辺には、内湖と呼ばれる小さい湖が40以上も点在し、本市では大中の湖、小中の湖、津田内湖、水茎内湖といった内湖が広がっていました。大中の湖は、本市と現在の東近江市にまたがる琵琶湖最大の面積を誇る内湖でした。大中の湖と琵琶湖は砂が堆積した砂洲(さす)によって区切られ、水深は最大でも2・7mと浅く、湖の面積は15・4平方キロメートルの大きさでした。古写真の1枚目は、大中の湖で行われた干拓事業の様子で、大きな湖をせき止めて、水を出している様子がわかります。現在、東近江市にある伊庭内湖は大中の湖の一部が残ったものになります。
小中の湖は大中の湖の南にあった内湖で、安土町下豊浦から東近江市きぬがさ町に広がっていました。湖には小さい島があり、福之島弁財天の周辺がかつての様子を今に残しています。また、大中の湖との間の砂洲から、弥生時代の遺跡である史跡・大中の湖南遺跡が確認されています。
津田内湖は長命寺山と八幡山の間に広がる内湖で、現在は干拓され、その場所の一部に本市の運動公園があります。古写真の2枚目は、干拓以前の津田内湖の写真です。撮影された時代は不明ですが、八幡山の上から長命寺山の間の様子をおさえています。かつては八幡山も長命寺山も琵琶湖の一つの島と考えられていたため、八幡山は大島、長命寺山は奥島(奥津島)と現在もその名称が伝わっています。また、現在の岡山周辺には水茎内湖が広がり、内湖に囲まれた岡山に岡山城が築かれていました。
市内に数多く点在していた内湖ですが、第二次世界大戦後、食糧対策や失業者対策により全国で干拓事業が行われます。小中の湖干拓は昭和17年、水茎内湖の干拓は昭和19年、大中の湖の干拓は昭和32年、津田内湖の干拓は昭和42年にそれぞれ着工されています。中でも大中の湖の干拓事業は総事業費41億円をかけ行われました。干拓後の大中の湖干拓地は農地として使用され、最初は米が作られ、やがてスイカなどの野菜や果物、肉牛の肥育が行われるようになりました。
現在、本市には琵琶湖最大の内湖である西の湖が存在します。西の湖は、かつての琵琶湖周辺にあった内湖の様子を今に残すもので、ヨシ地とこれらを利用したヨシ生産を生業とする人々の暮らしの景観は、平成18年に、国の重要文化的景観第1号に選定されています。
1.大中の湖の干拓の様子
2.干拓前の津田内湖
※写真は本紙をご覧ください
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