■合志市の地名の由来シリーズ 2
◇鹿児島にも“合志村”がありました
私たちの住むこの地域が『合志村』となったのは、明治22(1889)年4月1日のことです。当時の上庄村、豊岡村、竹迫町、福原村、幾久富村、栄村が合併し『合志村』が誕生しました。
ところが、『合志村』という村名を先に名付けた地域がありました。郷土史家の嶋田正守(しまだまさもり)さんが書いた『上庄の歴史と昔話』に“合志”という地名が鹿児島にあったことが記されています。
そこは、現在の鹿児島県さつま町神子(こうし)です。この“神子”は、今から1300年程前、薩摩国髙城(さつまのくにたき)郡“合志村”と称していたそうです。
養老4(720)年、九州南部で隼人(はやと)と呼ばれる住民たちがヤマト王権に対して反乱を起こし、ヤマト王権側は九州各地から1万人以上の兵を集めて戦い勝利しました。薩摩国の合志村は、そのときに肥後国合志郷から移り住んだ人たちで作った村だと伝えられています。その後、江戸時代に呼び名の“こうし”はそのままに、字あざだけを“神子”としたとされています。
この地には『合志郷由来之碑』が建てられており、その横には「神子は肥後国合志郷から移り住んだと伝えあり」との説明文があります。
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