■神戸市長 黒瀬(くろせ)弘志(ひろし)
▼宇土町に生まれる
黒瀬弘志は、明治16年(1883)1月7日に旧宇土藩士・黒瀬又雄の長男として宇土町門内(現宇土市門内町)に生まれました。宇土鶴城学館から済々黌に進みましたが、家庭の事情で福岡県久留米市に転居し、福岡県立中学明善校(現福岡県立明善高校)に転学しました。明善校から第五高等学校(現熊本大学)を経て、東京帝国大学英法科に入学しました。
▼警察官僚へ
明治42年に東京帝国大学を卒業した黒瀬は、高級官僚を採用する文官高等試験(現在の国家公務員採用総合職試験に相当)に合格し、同年12月に警視庁警部に任官しました。翌年には警視に昇進し、東京高輪警察署長、日本橋堀留警察署長、社会運動を取り締まる特別高等課長などを歴任しました。
大正6年(1917)に岡山県警察部長に就任した後、同9年に福岡県警察部長、同11年に山口県内務部長(※1)と兵庫県内務部長を務め、同13年から約1年間欧米各国に出張しました。帰国後の大正14年4月に山梨県知事に栄転しました。(※2)
▼山梨県知事から神戸市長へ
任期途中で辞任した神戸市長・石橋為之助の後任として白羽の矢が立ったのが、2ヶ月前に山梨県知事に就任したばかりの黒瀬でした。市では、市長選考委員会を立ち上げ、黒瀬を含む3名の候補者を選出しました。市議会議員による投票の結果、黒瀬が市長第一候補に当選し、市議会に推薦された黒瀬の市長就任が内務大臣により裁可され、第7代神戸市長となりました。(※3)
前年5月まで兵庫県内務部長を務めていた黒瀬は、神戸市の実情を熟知しており、このことが市長推薦の決め手となりました。
市長受諾を迷っていた黒瀬の背中を後押ししたのが、竹馬の友・小畑惟清や成松静雄でした。
▼神戸市長時代の功績
黒瀬は、大正14年8月から昭和8年(1933)まで2期8年にわたって神戸市長を務めました。市長在任中は、神戸中央卸売市場や乳幼児保護施設など多くの社会事業施設を新設して市民生活の向上と福利厚生の充実を図るとともに、学校など教育施設の拡充・増設にも力を入れました。
また、国際貿易港として発展が期待されていた神戸港の第二期築港工事を行うなど港湾機能の拡張整備を推進し、現在に至る神戸港繁栄の礎を築きました。
太っ腹で親分肌だった黒瀬は神戸市民からの人気も高く、当時の首相・犬養毅も黒瀬の豪胆な人柄にほれ込み、両者は親交を深めました。
▼晩年
市長退任後、阪神鉄工所取締役、東洋製紙株式会社取締役、神有電鉄株式会社取締役社長、神戸貿易振興株式会社取締役社長など神戸の大企業の経営に携わり、関西の経済産業の発展に尽力した一方、昭和11年にはゴルフ中にボールが右目に当たって失明するという事故にも見舞われました。
昭和18年11月10日に旅行先の熊本市内で胃潰瘍が原因で吐血し、そのまま死去しました。享年61歳。神戸で葬儀が営まれた後、遺骨は京都知恩院と宇土の城山墓地に分骨されました。
※1 当時の内務部長は知事に次ぐ県政のナンバー2。
※2 当時の知事は選挙ではなく政府が選任。
※3 当時の市長は市議会が推薦して内務大臣が任命。
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