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第109回 温故知新~うと学だより~

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熊本県宇土市

■名門 名和(なわ)一族

■後醍醐(ごだいご)天皇の親衛隊長 名和長年(ながとし)
戦国時代に宇土地域を治めた名和氏は、もともと伯耆国(ほうきのくに)(鳥取県西部)の有力豪族でした。隠岐島(おきのしま)(島根県)に幽閉(ゆうへい)されていた後醍醐天皇の島脱出を援助し、鎌倉幕府討幕運動で活躍した名和長年は、後醍醐天皇の忠臣として建武(けんむ)政権を支えました。
長年は、伯耆国・因幡国(いなばのくに)(鳥取県東部)の国司(こくし)に任じられ、長男・義高(よしたか)には肥後国八代荘の地頭職が与えられました。義高は家臣の内河義真(うちかわよしざね)を八代に派遣して現地支配を行いました。
延元(えんげん)元年(1336)に足利尊氏(あしかがたかうじ)軍(北朝方)との戦いで長年が討死すると、延元3年には長男・義高も高師直(こうのもろなお)軍との戦いで戦死します。

■名和氏、八代へ
長年・義高父子を相次いで失い、中央政権での立場や伯耆・因幡両国の領地を失った名和氏は、正平(しょうへい)13年(1358)に長年の孫にあたる顕興(あきおき)が一族をあげて八代に移りました。その後、八代を拠点に懐良親王(かねよししんのう)(後醍醐天皇の子)や良成親王(よしなりしんのう)(後村上天皇の子)を後ろ盾に、九州における南朝方の勢力拡大を目論見(もくろみ)ました。
しかし、九州平定のために室町幕府から派遣された北朝方の今川了俊(いまがわりょうしゅん)により名和氏などの南朝勢力は弱体化し、九州における南北朝合一(ごういつ)が実現しました。その後約100年間、名和氏の動向は史料上で確認できませんが、八代を中心に活動していたものと思われます。

■名和氏、宇土へ
文亀(ぶんき)元年(1501)、肥後国守護職・菊池氏の重臣・宇土為光(ためみつ)は、主君・菊池能運(よしかず)の留守中に隈府(わいふ)城(菊池市)を攻撃し、守護職の地位を奪いました。しかし、文亀3年には能運の反撃で為光は殺害され、能運が守護職に返り咲くとともに、菊池氏家臣の城右京亮(じょううきょうのすけ)という人物が宇土城に入り、宇土地域を支配しました。ところが、翌永正(えいしょう)元年(1504)に能運が急死すると、菊池氏内部で分裂・対立が起こり、城右京亮は没落しました。この混乱に乗じて、相良(さがら)氏との戦いで八代を追われていた名和顕忠(あきただ)(宇土為光の娘婿(むすめむこ))が宇土城に入りました。

■宇土・名和氏の終焉(しゅうえん)
顕忠が宇土城主となって以降、約80年間にわたって名和氏は宇土城を拠点に戦国領主として活動していくことになります。特に、交通の要衝(ようしょう)だった豊福(とよふく)(宇城市松橋町豊福)の領有をめぐっては、宇土の名和氏と八代の相良氏の間で、同盟と対立を繰り返しながら数十年に及ぶ激しい争奪戦が展開されました。戦場となった宇土城や宇土地域は、まさに戦国時代の様相を呈(てい)していました。
天正(てんしょう)15年(1587)の豊臣秀吉による九州征伐の際、秀吉軍の攻撃を受けた宇土城の名和顕孝(あきたか)は降伏し、宇土城を明け渡しました。翌年、顕孝は秀吉から筑前国(ちくぜんのくに)(福岡県)に領地を与えられ、小早川隆景(こばやかわたかかげ)の家臣となりました。これにより名和氏は宇土を離れることになり、約80年間続いた名和氏の宇土支配は終わりました。
その後、顕孝の子・長興(ながおき)が柳川(やながわ)藩に仕え、名和氏は柳川藩士として存続して明治維新を迎えました。

○参考文献
・『宇土城跡(西岡台)』
・『新宇土市史』(通史編第二巻)

問い合わせ:文化課 文化係
【電話】23-0156

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