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第122 回 温故知新 ~うと学だより~

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熊本県宇土市

■没後20年 直木賞作家 光岡明(みつおかあきら)
今年は、宇土高校の卒業生で熊本県出身者として唯一「直木賞」を受賞している作家・光岡明の没後20年にあたります。

1 幼少期
光岡明は、昭和7年(1932)11月3日に上益城郡秋津村沼山津(ぬやまづ)(現熊本市東区)で生まれました。職業軍人だった父・均(ひとし)の転勤で一時東京に移りましたが、小学校3年生の時に熊本市に戻り白川小学校に転校しました。昭和19年には満州(まんしゅう)(現在の中国東北部)に渡りましたが、敗戦直前に熊本に引き揚げ、母方の親戚がいた宇土町に身を寄せました。光岡少年は旧制宇土中学(現在の宇土高校の前身)に転校しました。

2 宇土での青春時代
昭和23年4月、発足したばかりの新制宇土高校に入学しました。旧制宇土中学時代を含めると、もっとも多感な青春時代の6年間を宇土で過ごしました。高校時代は文芸部と演劇部に所属し、特に短歌や小説の創作活動には熱心で、短編小説「或(あ)る手紙」や「小さな懐疑者」を同校文芸部の雑誌「單彩(たんさい)」で発表しています。高校卒業後、昭和26年4月に熊本大学法文学部に進学しました。

3 二足のわらじ―記者と作家―
大学卒業後、昭和30年に熊日新聞社に入社しました。校閲(こうえつ)部や政経部、文化部を経て、昭和41年に東京支社に異動しました。4年後に熊本本社に戻るも、昭和51年には再び東京支社勤務となり、この2度目の東京勤務時代に発表した「いづくの蟹(かに)」「奥義(おうぎ)」「湿舌(しつぜつ)」と、熊本に戻って発表した「草と草との距離」の4作品が芥川賞候補に挙げられましたが、いずれも受賞を逃しました。しかし、文藝春秋(ぶんげいしゅんじゅう)から刊行された「草と草との距離」は熊日文学賞を受賞しています。

4 直木賞受賞
昭和57年、編集局次長だった49歳の時、自身初の長編小説「機雷(きらい)」が第86回直木賞を受賞しました。地方在住作家の受賞は初の快挙でした。選考委員の一人で「鬼平犯科帳」や「剣客商売」で知られる時代小説家・池波正太郎(いけなみしょうたろう)は、「この小説がもつ力感を第一に買わざるを得なかった」「構築のみごとさ。登場人物の描写もすぐれていて、戦争小説の範疇(はんちゅう)をこえた力作といえる」と絶賛し、候補作7作品の中で最高評価を与えました。
昭和58年には、実在した不知火出身の霊能力者・御船千鶴子(みふねちづこ)を題材にした小説「千里眼(せんりがん)千鶴子」を発表しました。

5 晩年
昭和60年に30年間勤めた熊日新聞社を退職すると、創設されたばかりの熊本近代文学館の初代館長に就任し、県文学界の興隆(こうりゅう)に尽力しました。この他、県文化振興審議会会長をはじめ県文化財保護審議会副会長なども歴任し、当時の細川護熙(もりひろ)県知事が推進した文化芸術行政の発展にも大きく貢献しました。
平成16年(2004)7月に肺がんの告知を受け、闘病の末、同年12月22日、家族が見守るなか熊本市内の自宅で永眠しました。享年72。翌年、熊本県近代文化功労者として顕彰されました。

6 直木賞受賞作品「機雷(きらい)」
太平洋戦争中、日米両海軍が敷設(ふせつ)した水中爆弾「機雷」に魅(み)せられた一人の海軍将校の物語。
戦時中は海軍中尉として機雷を仕掛け、戦後は米軍が敷設した機雷を除去する任務に従事した主人公・梶井。海で漂(ただよ)いながらひたすら敵艦の接近を待つ機雷という消極的な兵器に自己の生き様を重ね合わせ、苦悩する主人公の心情を巧みに描いた作品。

敷設…機雷を海に設置すること

〔参考文献〕・『新宇土市史』(通史編 第三巻)

問合せ:文化課 文化係
【電話】23-0156

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