■比叡(ひえい)部隊 ―宇土に兵隊さんがやってきた―
◇決号(けつごう)作戦 ―本土決戦に備えよ―
太平洋戦争の終戦から今年で79回目の夏を迎えました。
太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)4月、アメリカ軍が沖縄本島に上陸すると、アメリカ軍をはじめとする連合軍による日本本土侵攻がいよいよ現実味を帯びてきました。大本営は来(きた)るべき連合軍との本土決戦を「決号作戦」と名づけ、決戦に備えた基地や陣地を全国各地に作り、本土防衛のための兵力増強を急ぎました。
陸軍では青森以南の東日本を防衛する「第一総軍」と、西日本を防衛する「第二総軍」を新たに創設し、その下に40個の師団を編制して、約150万人の兵士が動員されました(根こそぎ動員)。
◇第216師団(比叡部隊)
新たに編制された40個師団の中に、九州を防衛するために熊本県に派遣された師団がありました。佐賀県出身の陸軍中将・中野良次(りょうじ)を師団長とする総兵員約2万人の第216師団です。師団が編制された当初、師団司令部が京都に置かれたため、京都盆地の東に聳(そび)える霊峰・比叡山に因(ちな)んで「比叡部隊」と呼ばれました。
比叡部隊の任務は、敵軍の上陸を最前線で迎え撃つ海岸守備隊を後方から支援するもので、「決号作戦(本土決戦)」の中核に位置付けられました。中部地方や近畿地方で編制され、訓練を受けた各部隊は、6月中旬から7月中旬にかけて熊本入りしました。
◇比叡部隊、熊本へ
第216師団(比叡部隊)の中枢にあたる師団司令部と通信隊は宇土町に置かれました。分散教育※により空き校舎になっていた宇土国民学校(宇土小学校の前身、現在の市民会館や鶴城中学校敷地)の講堂が司令部になりました。師団長の中野良次は学校近くの大きな屋敷を官舎とし、兵員たちは宇土国民学校のほか、宇土中学校や轟国民学校、近隣の民家に寄宿しました。
その他の部隊は熊本平野や八代平野の各地に分散して配備され、松橋町に駐屯した野砲兵第216連隊には、京都帝国大学入学直後に学徒出陣で徴兵された梅原猛(たけし)氏(哲学者、2019年に93歳で逝去)も所属していました。梅原氏は松橋町豊川の浄土真宗の寺を宿舎にしていました。
◇終戦、そして復員※
昭和20年8月10日の昼前、宇土町上空に襲来したアメリカ軍爆撃機210機が、無数の焼夷弾(しょういだん)を投下しました。この空襲により比叡部隊が司令部を置いていた宇土国民学校が全焼しました。
本土決戦に備えて県内各地で訓練を行っていた比叡部隊の各部隊は、戦争末期に編制されたため人員や物資に乏(とぼ)しく、十分な決戦準備が整わないうちに8月15日の終戦を迎えました。
終戦後、8月後半から9月にかけて比叡部隊は熊本を離れました。軍の記録では比叡部隊の復員は9月23日のこととされています。
比叡部隊が去った宇土町では、9月10日に本町五丁目の正栄寺で戦没者追悼会(ついとうえ)が挙行され、戦災からの復興が始まりました。
※分散教育…空襲激化で児童生徒は自宅近くの寺などで授業を受けた
※復員…兵役義務が解かれること
〔参考文献〕
・『新宇土市史』(通史編第三巻)
・『宇土の今昔百ものがたり』
問合せ:文化課 文化係
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