秋の彼岸(ひがん)の9月23日、城泉寺(浄心寺)のライトアップにあわせて、尺八(しゃくはち)演奏家、白土虚皓(しらつちここう)さんの演奏会が開かれました。今回は、湯前町と尺八のゆかりについて紹介します。
■虚無僧(こむそう)谷狂竹(たにきょうちく)
明治から昭和にかけて活躍した谷狂竹(本名・武雄)という尺八演奏家がいました。明治15年、大阪府に生まれ、尺八演奏家の宮川如山(にょざん)の弟子となり、教えを受けました。大正6年に長男を亡くして以後、生涯を虚無僧※として過ごした狂竹の活動範囲は国内にとどまらず、中国・タイ・インド・ハワイなどの海外にまで及びました。
海外でも活動していた狂竹ですが、終戦後には生活も苦しかったようです。栄養失調になった狂竹は、人の世話になりながら岡山から九州へ流れ、湯前町へと辿(たど)り着きました。
※虚無僧…禅宗(ぜんしゅう)の一派の普化宗(ふけしゅう)の僧。尺八を吹いてお布施を請いながら行脚(あんぎゃ)した有髪の僧。
■湯前町での狂竹
湯前町に来てからは、椎葉家(馬場)や柴田家(古城)で世話になったようです。中でも椎葉家の当主、亮雄(すけお)さんは狂竹と親子の縁を結び、徹泉という法名(ほうみょう)を付けてもらい、手紙の代筆をするなど、狂竹に孝養(こうよう)を尽くしました。狂竹は城泉寺(浄心寺)や宝陀寺観音堂などで尺八を演奏することもあったようで、狂竹の影響で亮雄さんをはじめ、近所の人たちも尺八を吹くようになったということです。
狂竹は昭和25年12月14日、宝陀寺で生涯を終えました。68歳でした。葬儀には多くの人が集まり、尺八を吹いて別れを告げたそうです。
■狂竹の継承者
狂竹の世話をした亮雄さんは、時おり八勝寺などに籠(こも)って尺八を吹くことがあったようで、那須清文さん(馬場)は子どものころに亮雄さんの尺八を聞いたことがあるそうです。ほかの人からも「城泉寺の近くに虚無僧が2軒あった」「昭和天皇の御前で尺八を演奏した人がいる」という話を聞きました。狂竹から尺八を習った人たちだったのかもしれません。
狂竹には西村虚空(こくう)という弟子がいて、虚空の弟子が虚皓さんとなります。虚皓さんは薬王寺(やくおうじ)(甲佐町)の住職をしています。狂竹を偲(しの)んで尺八を奉納するために、湯前町に何度か訪れていたことがきっかけとなって、城泉寺(浄心寺)での演奏会が実現しました。
教育課学芸員 松村祥志(しょうじ)
参考:藤田俊一「虚無僧狂竹成仏」『日本音楽』第53号、昭和26年
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