鎌倉時代に建立され、県内最古の木造建築物として知られる城泉寺(浄心寺)。これまで6回にわたって保存の歩みを紹介してきましたが、城泉寺の価値を整理しておきたいと思います。
■城泉寺の価値
城泉寺の価値は、何といっても鎌倉時代前期の阿弥陀堂(あみだどう)や木造阿弥陀如来(にょらい)及び両脇侍像、九重石塔、七重石塔がセットで残っていることです。脇侍の観音菩薩(かんのんぼさつ)の台座の心棒には銘文(めいぶん)が残り、寛喜元年(1229年)に実明(じつみょう)によって製作されたことが分かります。石塔にも銘文が残り、仏像の翌年に沙弥(しゃみ)浄心が石塔を建立したことが分かり、浄心が阿弥陀堂を創建したと考えられています。浄心については久米氏説などがあり、不明な部分がありますが、優れた仏像や石塔を造立するだけの力を持った人物がいたということが重要です。
阿弥陀堂の地下からは解体修理のときに人骨の入った骨壺が発見されており、浄心のものと考えられています。阿弥陀堂は浄心の墓と位置付けられていたとも考えられます。
城泉寺の周りには土塁が残っており、敷地全体が浄心の館だったとする説もあります。城泉寺の文化財や遺構(いこう)は、鎌倉時代のこの地域の様相をさぐる手掛かりとなります。
■名称について
城泉寺は、江戸時代までは建立者の名にちなみ「浄心寺」と呼ばれていました。大正2年(1913年)ごろから「城泉寺」と呼ばれるようになったことは「城泉寺(浄心寺)保存の歩み」の第1回にも書きました。「城泉寺」という名称が今では広く浸透しています。旧国宝指定のときに明導寺の飛び地境内(けいだい)に編入されたため、文化財名称として「明導寺阿弥陀堂」も使用されています。一つのお堂に三つの異なる名称が存在するのは、めずらしいです。
歴史的な経緯をみれば、本来の「浄心寺」が最もふさわしいと思われますが、「城泉寺」も広く浸透しているので、急に名称を変更することも難しいところです。しばらくは「城泉寺(浄心寺)」と併記しながら、徐々に本来の「浄心寺」の浸透を図っていきたいと考えています。
■城泉寺を未来へ
これまで教育課に残る古い書類などをひもときながら城泉寺保存の歩みを紹介しました。城泉寺が今日まで残されてきたのには、多くの先人たちのまちを挙げての保存に向けた活動がありました。城泉寺を守ってきた人々の思いを受け継ぎながら、城泉寺を未来へ伝えていかなければなりません。
教育課学芸員 松村祥志(しょうじ)
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