今回からは今の里宮神社の場所にかつて存在した普門寺(ふもんじ)について紹介したいと思います。
■普門寺の沿革
普門寺は、もともと湯山(現在の水上村)にあり、修験道(しゅけんどう)だったと言われています。修験道とは、仏教と山岳信仰が融合した日本独自の信仰形態のことです。市房山も古来、信仰の対象であったと考えられます。「麻郡(まぐん)※1神社私考」などの伝えるところによれば、大同2(807)年、久米城主、市房という人が狩りをして山に登り、一つの奇石があるのを見て霊地であることを知り、小祠(しょうし)を建て、霧島神宮を勧請(かんじょう)※2したといいます。やがて仏教的要素も加わり、修験道が行われたと考えられます。
永正3(1506)年、湯山から岩野村(現在の水上村)に移り、施無畏山(せむいざん)真言院普門寺と称しました。ところが天正10(1582)年、猫寺騒動が起こり、当時住職であった盛誉(せいよ)は殺害されます。
20年余りを経た慶長9(1604)年、頼真(らいしん)という僧によって湯前城の跡地に普門寺が移転再建されました。21年後には岩野の普門寺故地に、盛誉とその母玖月善女(くげつぜんにょ)を供養するために生善院が建立されました。
■普門寺と市房山
普門寺は起源が市房山の修験道にあったことから、湯前に再建されてからも市房大権現(江戸時代には市房大権現と呼ばれていた)の別当寺(べっとうじ)と位置づけられていました。別当寺とは、神社を管理する寺院のことをいいます。お寺が神社を管理するというと、奇妙に思われるかもしれませんが、当時は日本の神は仏教の仏が姿を変えて現れたものとする本地垂迹(ほんじすいじゃく)説という考えがありました。神は「権(かり)に現われた」姿という意味で「権現」と呼ばれ、本来の仏を本地仏(ほんじぶつ)といい、神仏習合といいます。
市房山には霧島神宮の6柱の神様が祭られており、本地仏は6柱の神様に対応して六観音※3とされていました。
今に残る普門寺観音堂は、江戸時代の史料には「御本地堂(ごほんじどう)」とも記されていて、市房山の本地仏の六観音を祭ったものでした。神仏習合は明治になり神仏分離が行われるまでは、ごく普通に行われていました。
※1 「麻郡神社私考」は元禄12年に青井阿蘇神社の大宮司青井惟董(これただ)が球磨郡内の神社の由来・沿革を調査してまとめたもの
※2 神仏の分身や分霊をほかの地に移して祭ること
※3 普門寺観音堂の六観音は現在1体紛失し5体となっている
教育課学芸員 松村祥志(しょうじ)
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