昨年6月、宮崎県椎葉村の黒木照美さんが教育課を訪ねて来られて、一通の古文書(本紙左写真)を出されました。聞けば古文書に出てくる普門寺について調べに来られたとのことでした。今回は普門寺と椎葉村の関係についてみていきたいと思います。
■絵像仏の由来
古文書は、椎葉村栂尾(つがお)に伝わる絵像仏(えぞうぶつ)※の由来を記したものでした。
「栂尾村の社人黒木弥右衛門(やえもん)の妻は神子(みこ)(巫女)で、ある日、道を歩いていたところ、空から鈴の音が聞こえ、見ると鶴の上に観音菩薩(ぼさつ)が乗ったお姿の絵像仏が目の前に下りてきたので、服の袂(たもと)※に受けて家に持ち帰り、神棚に祭った。それより今に至るまで毎月四日を縁日と定め、四ケ村※その他諸人が、思い思いに参詣(さんけい)している。市房神社が遠路なので、参詣することができないときは、この尊像を市房の御本地観音と同一と念じて祈願をすれば、成就すること千度あり、成就の後、市房神社または普門寺仏前まで思い思いにお礼参りをしてきたと、四ケ村の老若どもが申し伝えている。
右の四ケ村は普門寺の檀家(だんか)であるので、檀家を回って訪れた際にこの話を聞き、開眼供養を行い、市房権現の紙の衣六紙を加えて納めた。以後、正観音菩薩と唱え、身を清くして灯明・香花を供え、思い思いに参詣するよう申し伝え置くものである」
以上の内容を、文政6年(1823)、普門寺三十六世住職の亮冏(りょうけい)が村役人立会のもとに記したものでした。
■椎葉村と普門寺
由来の中で、市房神社が遠路なので、絵像仏に代わりに祈願をしたこと、願いが成就したら市房神社か普門寺までお礼参りをしたことが記されていて、興味を惹かれます。内容に多少脚色もあるかもしれませんが、当時、市房山への信仰が球磨郡にとどまらず、椎葉村にも及んでいたことが知られます。
四ケ村は普門寺の檀家であったため、普門寺の亮冏が絵像仏の話を聞き、由来を書き記すことになりました。
江戸時代、椎葉村は椎葉山と呼ばれ、人吉藩の支配地でした。安政5年(1858)ごろの椎葉山の宗門人別改め※によれば、椎葉山には普門寺の檀家が318人いました。普門寺は檀家回りで椎葉山まで足を運び、勤めを果たす一方で、市房山への信仰の普及にも一役買っていたのかもしれません。
※絵像仏…絵に描いた仏像
※袂…着物の口の袋のようになった部分
※四ケ村…栂尾・尾崎・吐野(吐野々)・中山の四つの村
※宗門人別改め…江戸時代、領民がキリスト信者でないことを確認するため毎年、宗派を確かめ、帳面を作成していた
教育課学芸員 松村祥志(しょうじ)
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