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米作り、二千年にわたる大地の記憶~菊池川流域「今昔『水稲』物語」~

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熊本県玉名市

■第6回 干拓、干潟を耕作地に
菊池川河口付近では、上流から流れてきた土砂が堆積し、広大な干潟ができていました。その干潟を耕作地にするため、海に面する横島町や岱明町、天水町では江戸時代から昭和42年まで干拓が断続的に行われ、多くの耕作地がつくられました。干拓の地割(ちわり)もほぼそのままで、当時の堤防の石積みがよく残っています。
玉名の干拓は、加藤清正(かとうきよまさ)が肥後に入国してから本格的に始まったと伝わります。その後、細川家(ほそかわけ)による海岸沿いの小規模な開発が始まり、江戸時代後半に熊本藩家老の有吉家(ありよしけ)が干拓の権利を持つと、干拓の規模は大きくなりました。また、有吉家以外にも、手永(てなが)(村を数カ村まとめた単位)や村が主体となって盛んに干拓を進めました。明治時代になると、許可されれば個人による干拓も可能になります。明治20年代から30年代には主に地元の富裕層によって、100町(ちょう)(約100ヘクタール)規模の干拓地が次々とつくられました。ちなみに、この時期の干拓の費用は、全て事業者負担です。現在、最も海側にある干拓地「国営横島干拓」は国営公共事業として行われたもので、昭和22年に着工し昭和42年に工事完了しました。この干拓により623ヘクタールの新たな大地が誕生し、大栄区(だいえいく)・昭栄区(しょうえいく)・新栄区(しんえいく)となりました。昭和47年10月から入植が始まり、ことしで50周年を迎えます。江戸時代に始まった干拓は、現在までに約3千ヘクタールに及ぶ耕作地を誕生させました。各時代を通じて干拓地で生産される主な農作物は「米」であり、地域に大きな利益をもたらしたのです。
また、江戸時代から盛んに行われた干拓の結果、玉名市内の各地に堤防や樋門(ひもん)(排水用の水門)が残されました。その中でも特に、玉名市大浜町の末広開潮受堤防(すえひろびらきしおうけていぼう)と樋門、玉名市横島町の明丑開(めいちゅうびらき)・明豊開(めいほうびらき)・大豊開(だいほうびらき)の各潮受堤防は、総延長5.2キロにもなります。全国に残る干拓施設の中でも非常に保存状態がよく、干拓の歴史を物語る貴重な歴史遺産であることから「旧玉名干拓施設」として国の重要文化財に指定されています。干拓地は、堤防で干潟を囲い中の水を排出してつくられます。平らで海抜が低いため、台風などで堤防が決壊し、その潮害で多くの被害を出してきました。そのたびに人々は堤防や耕作地の復旧を行ってきました。各地に残る役目を終えた古い時代の堤防は、高潮などの非常時には再び潮受堤防の役目を担う予備役の堤防となります。平らな土地の中に各時代の堤防と地割が残る風景は、他には見られない独特の景色です。
毎年10月中頃には、横島町文化財保存顕彰会が中心となって地元の人々や企業が堤防の草刈り・清掃活動を行っています。

問合せ:文化課
【電話】75-1136

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