■400年以上も前から染め物の歴史を持つ高瀬
本市の中心部にある高瀬地区。かつてここで作られていたのが絞り木綿「高瀬しぼり」です。絞り木綿とは、木綿布の一部を糸でくくって染液(そめえき)に浸し、染料(せんりょう)が染(し)みずに白く浮き出る部分をつくって模様を出すという技法で染められたもの。染める際ににじみができ、手描きで色を付けたものとは違う味わいが魅力です。
□丈夫で肌触りが良く人々に愛される木綿
木綿の生産の起源は古く、さかのぼること紀元前。木綿織は、世界四大文明の1つであるインダス文明独自のものとして、染色の技術と共に高度な発展を遂げました。
それからずっと後の8世紀になると木綿の栽培と綿布(めんぷ)の生産が中国に伝えられ、14世紀には朝鮮でも本格的に生産が行われるようになります。そのころ日本ではまだ木綿生産は始まっておらず、朝鮮からの贈り物や輸入品として手に入れた木綿は貴重なものでした。丈夫で肌触りが良く、吸水性にも保温性にも優れる綿布。それまで麻を衣服の材料として用いていた日本人はさぞかし驚いたことでしょう。
しかし日本があまりにも木綿を輸入したため、朝鮮では輸出を禁じます。中国(明(みん))も禁止していたため、入手困難となりました。
日本で木綿の栽培と綿布の生産が始まったのは16世紀前半。『新・木綿以前のこと』(中公新書、永原慶二(ながはらけいじ)著)では、日本の木綿栽培は有明海東岸で始まったとされています。1593(文禄2)年、朝鮮出兵中の加藤清正(かとうきよまさ)は大量の木綿を至急織らせて送るよう命じた書状を国元(くにもと)に送りました。このころには肥後方面が木綿生産の先進地だったことが推察できます。海外との貿易港として栄えていた高瀬の港は木綿の移出、移入の拠点となったことでしょう。寛政(かんせい)の3奇人として有名な勤王家(きんのうか)・高山彦九郎(たかやまひこくろう)の『筑紫(つくし)日記』には、1792(寛政4)年に「木綿も高瀬にて織り始るといふ」と伝聞したことが書かれていました。
□木綿と相性の良い藍も栽培が盛んに
木綿の染料として相性が良いとされるのが、蓼藍(たであい)の葉からつくる藍染液(あいぞめえき)。藍染めはインドで始まり、8世紀には日本でも行われていました。藍は青の色合いが美しいだけでなく、繊維を丈夫にし、抗菌作用もある優れた天然染料です。その特徴から農作業をする人々が身に着けるものとして適していたと考えられ、木綿の普及とともに藍の生産も広がりを見せました。
熊本藩の経済力調査書である「諸郷惣産物調張」(1842(天保13)年)には、五町(ごちょう)、池田(いけだ)、横手(よこて)、詫麻(たくま)郡本庄(ほんじょう)、田迎(たむかえ)、山鹿の諸手永(熊本市、山鹿周辺)で藍が栽培され、総生産量は17万5千貫目(かんめ)(約65万6千キロ相当)と記されています。1594(文禄3)年に加藤清正が国元に送った書状には、染物屋である紺屋(こうや)の職人を熊本と高瀬から1人ずつ派遣するよう指示する内容も記載されていました。
400年以上も前から染め物を取り扱っていた高瀬。木綿と藍の栽培、多くの紺屋の存在からも高瀬しぼりが誕生する条件がそろっていました。
□日本最古の絞り木綿「高瀬しぼり」
高瀬しぼりが文献に最初に登場するのは江戸初期(1638(寛永15)年編集)の著名な本で俳諧の参考書『毛吹草(けふきぐさ)』。全国の特産物が紹介してあり「肥後高瀬絞り木綿」と「豊後(ぶんご)絞り木綿」の2つが記されています。その説明に「高瀬絞り木綿当所より始」とあることから、高瀬しぼりが日本最古の絞り木綿だと考えられています。この『毛吹草』の著者は京都の宿屋の主人であった俳人の松瀬重頼(まつえしげより)。江戸初期には高瀬しぼりの名が京都でも知られていたことが分かります。
天保年間の終わり(1840年ごろ)に作られた『肥の後州名所名物数望附』には「高瀬絞り木綿 名代にて多く製す 見事也 所々へ出る」とあり、高瀬しぼり木綿の発展ぶりがうかがえます。明治8年の『日本物産字引(じびき)』の肥後の項にも「絞り木綿 高瀬より製す」との記載が。300年近くもの間、人々に愛されていたことは記録からも明白です。ところが、その姿はこつぜんと消えてしまうのでした。
□姿を消し幻(まぼろし)となった
1883(明治16)年の統計書『熊本県統計表』には特産品の中に「絞木綿玉名郡高瀬町」と出てきます。これは高瀬しぼりが見られる最後の資料です。このころまでは周知の名産だったのでしょう。この資料を最後に高瀬しぼりについて書かれたものは途絶えてしまいました。
高瀬しぼりがどのような柄だったのか記された文献はいまだに見つかっていません。その形さえ分からないままに伝統製法は絶え、地元でも忘れ去られた存在となりました。
そこで高瀬しぼりの復元に向けて手掛かりとなったのは、明治に生まれた人々の記憶でした。
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