■幻の高瀬しぼり 朝顔の花咲かせ復活
▼究極の力強い美しさ 玉名で再び
▽30年前に始まった高瀬しぼり復元への道
築地に布工房「筒ヶ岳(つつがたけ)」を構える染織工芸家の下川冨士子(しもかわふじこ)さん(88歳)が幻の絞り木綿「高瀬しぼり」の復元に乗り出したのは30年前。当時、玉名市立歴史博物館館長だった故田邉哲夫(たなべてつお)さんから「江戸初期の肥後の特産品に『高瀬絞(しぼり)』というものがあったらしい。復元してくれないか」と相談を受けたことがきっかけでした。「高瀬絞り木綿とは、祖母や近所のおばあさんが着けていた腰巻(こしまき)(女性の下着)の柄のことではないだろうか」と思った下川さんは「今ならばまだ調査ができる」と翌日から研究に取り掛かったのでした。
▽人々の記憶をたどって再び表した朝顔の花
最後に高瀬しぼりについて記された資料が明治16年のものであることから「明治生まれの人は記憶にあるかもしれない」と聞き取り調査を開始。すると多くの人が「昔、絞り染めの腰巻をしていた。その柄は紺色で、朝顔のような丸い形にクモの巣のような糸がかりの跡があるようだった」と記憶していました。その言葉を頼りに図柄をスケッチしていくうち、幾つかの形が見えてきた下川さん。藍染めで試作品作りに着手しました。試作をしては老人ホームやお年寄りの家々を訪ね、昔の衣服や着物にまつわる話を聞きました。寝る間も惜しんで、木綿布に何十個、何百個と絞りを作り、試行錯誤しながら染め続ける日々。試作品を見た人々は「あ~懐かしか!こがん柄の腰巻ば使いよった!」との声を沸かせました。
下川さんは「1人での研究には限界がある」と1995年3月に「高瀬しぼり木綿研究会」を設立。20人以上の仲間と共に研究を重ねました。全国各地絞りの産地を訪ねて高瀬しぼりのことを聞き、同時に模様や色合いなどさまざまに工夫した試作品をお年寄りに見せました。そしてついに多くの人々に受け入れられる「高瀬しぼり」の復元にたどり着いたのでした。下川さんと田邉さんは論文を書き、その研究成果は日本の染織会で広く認められました。
▼人々の心では確かに生き続けていた
▽貧しかった時代に女性が憧れた花柄の腰巻
お年寄りが「懐かしか!」と口をそろえて言ったその柄が使われていたのは不思議と腰巻だけでした。
「試作品を元に市の広報紙や新聞、テレビなどで高瀬しぼりが家に残っていないか呼び掛けたところ、戦前の腰巻が3枚送られてきただけでした。『ひょっとしたら着物にも使われていたのでは?』とも思いましたが、どこを探してもありません。現物も、お年寄りの記憶の中にも、高瀬しぼりが使われているのは腰巻だけなんです」と話す下川さん。高瀬しぼりが作られていたと考えられる16~18世紀は庶民が貧しかった時代。十分な衣服が手に入らないその時代に、体の中で一番大切なものを守るための腰巻に使われていたのでした。腰巻を買うお金さえなかったという人もいます。
下川さんが高瀬しぼりの試作品を持って老人ホームへ出かけたときのこと。しぼりの布を見て、当時を思い出し涙を流した人がいたそうです。その人は子どもの頃貧しく、腰巻に憧れていました。小学校に入学する年、お正月前に裏山へ榊(さかき)を採りに通い、それを束にして村内を一軒一軒売り歩き、やっとの思いで腰巻を買ったとのこと。お正月は新しい腰巻を着けることができて、とてもうれしかったと。学校の身体検査のとき以外は大切にたんすにしまっていたそうです。下川さんは「朝顔の花のような腰巻は最高の下着だったのだと思います」と話します。高瀬しぼりの展示会を開いたとき、あるおばあさんが「腰巻の柄ば展示しなすな!」と悲鳴を上げたそうです。
「下着である腰巻は傷んでくると繕い、いよいよ使えなくなると雑巾にして使い切ったもの。母の形見として残すことなどあり得なかったのです。女性の作業着が腰巻からもんぺに変わり、時代の移り変わりとともに需要が少なくなり、高瀬しぼりは姿を消したのだと思います。それでも女性たちの心には深く記憶され、確かに生き続けていました」と下川さんは語りました。
▽玉名のシンボルとして愛され続けてほしい
現在も下川さんは高瀬しぼり木綿研究会の会長として高瀬しぼりの研究を続け、普及活動に力を入れています。
「高瀬しぼりは玉名の宝。玉名のシンボルです。『朝顔の花のような絞り』は400年以上も前から脈々と玉名の地で受け継がれてきたもの。これを日本全国、そして世界へと広めていきたいと思います。これからも玉名市の財産として人々から愛されるものであってほしいと願っています」と高瀬しぼりへの思いを語りました。
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