文字サイズ
自治体の皆さまへ

《シリーズ》菊池一族の遺産

25/50

熊本県菊池市

■21代 重朝(しげとも)
20代為邦(ためくに)の長子で、父の隠居に伴い、菊池一族衰退の兆しが見え始める不安定な時代に家督を相続しました。
応仁元(1467)年、京都で細川勝元(ほそかわかつもと)と山名持豊(やまなもちとよ)の争いが起き、応仁の乱へと発展していきます。この機に乗じて、重朝は父為邦が失った筑後の所領回復を企図し挙兵しました。しかし、筑後守護職の回復というような目立った成果は得られなかったようです。
勢力の衰えという、厳しい状況に置かれた重朝でしたが、文の面では父に続き大きな功績を残しています。
菊池一族は、儒学の中でも大義名分を重んじ、主従の道を強く唱える朱子学を深く学んだとされています。重朝は為邦や家臣の隈部忠直(くまべただのぶ)と相談し、文明4(1472)年に孔子堂を建て文教を奨励しました。
文明8(1476)年、当時日本一の学者と称された京都南禅寺の桂庵禅師(けいあんぜんじ)が九州行脚の途中、学問が盛んな菊池に立ち寄ります。これを喜んだ重朝はその教えを請うとともに、翌年、孔子の祭りである「釈奠(せきてん)の礼」を催行しました。
さらに重朝は、歴史に名を残す偉業を成しています。「菊池万句」と呼ばれる大連歌の会です。文明13(1481)年、重朝の館をはじめ家臣や僧などの館20カ所で、「月」をテーマに会場それぞれに500句ずつ、なんと一日のうちに1万句を詠んだのです。「学問は僧がするもの」との考えが一般的だったこの時代に、この規模でこれほど多くの人々が連歌を詠むことができたという事実は、菊池の人々の詩趣や教養の高さを如実に知らしめることとなりました。
文の面では多大な功績を残した重朝ですが、武の面では苦戦を強いられたまま、失意のうちに明応2(1493)年に亡くなりました。墓は江月山玉祥寺(こうげつざんぎょくしょうじ)に父為邦と並んで建てられています。

問い合わせ先:菊池プロモーション室
【電話】0968-25-7267

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU