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《シリーズ》南北朝・菊池一族歴史街道(8)

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熊本県菊池市

■大刀洗(たちあらい)町
特徴的な町名の由来は、南北朝時代の1359年、肥後の豪族・菊池武光(きくちたけみつ)率いる南朝方と筑前大宰府を本拠とする小弐頼尚(しょうによりひさ)率いる北朝方が、現在の小郡市大保付近で激突した大保原合戦に勝利した武光が、激戦で血に染まった太刀を川で洗った、という故事に由来しています。

■菊池武光の銅像
大刀洗川のほとりに広がる大刀洗公園には、武光が太刀を洗った場所とされる菊池渡(きくちわたり)と昭和12年に建てられた武光の銅像があります。像をよく見ると、あちこちに傷や穴があるのが分かります。これは第二次世界大戦中の昭和20年3月大刀洗飛行場空襲によりできたものです。

■菊池武敏(きくちたけとし)と大刀洗
武光が台頭する前の延元元(1336)年、多々良浜(たたらはま)の戦いで足利尊氏(あしかがたかうじ)に敗れた肥後の菊池武敏は、本郷の三原種朝(みはらたねとも)に守られて三原城に逃げ込みました。
ここで10日あまり籠城して戦いましたが、とうてい足利方の仁木義長(にきよしなが)の攻撃を防ぐことはできませんでした。暗闇に紛れて八女の黒木城に走りましたが、ここでも防ぎきれず、惨々の態で居城隈府に逃れ帰りました。

■三原城
三原城は石垣を高く積んで、天守閣を持つような城ではなく、屋敷を堀で囲んだ館です。今でも堀の跡が残っています。
天正14(1586)年に、当主三原紹心(みはらじょうしん)が太宰府の四王寺山の岩屋城で鹿児島の島津軍との戦いで討ち死にし、城としての役目は終えました。平地にある城(館)で堀がはっきり残っているのは福岡県内では三原城だけで、大変めずらしい遺跡です。
平安時代より栄えた三原家代々の居城・三原城があった本郷地区は、現在も昔ながらの街並みがたくさん残っています。白壁造りの家や寺社仏閣、醬油の蔵元、酒造など、歴史情緒あふれる景観が広がります。

問い合わせ先:菊池プロモーション室
【電話】0968-25-7267

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