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《シリーズ》菊池一族の遺産

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熊本県菊池市

■歴代菊池の当主たち

□22代能運(よしゆき)
21代重朝(しげとも)の長子で、当初は、武運(たけゆき)と名乗っていました。この頃の菊池氏は、一族の内乱や父重朝の矢部幕の平(山都町)での大敗などにより、肥後守護としての権威は失墜、勢力は弱まるばかりでした。
文亀元(1501)年5月には、大叔父の宇土為光(うとためみつ)(20代為邦(ためくに)の弟)により、守山城は攻め落とされ、武運は島原まで逃れました。この時、「不運」につながるとして「能運」と改名したとされています。
文亀3(1503)年9月、島原で雌伏の時を過ごしていた能運は、家臣の城(じょう)氏や隈部(くまべ)氏らと呼応し、菊池復帰の兵をあげ、高瀬(玉名市)に上陸。為光勢との大激戦の末、守山城の奪還を果たしました。
しかし、この時の傷が元で永正元(1504)年2月15日、23歳の若さで亡くなります。守護職は、遺言により為邦の弟為安(ためやす)の孫政朝(まさとも)(後の政隆(まさたか)に譲られました。こうして菊池氏の直系は、能運を最後に途絶えてしまいました。墓は、熊耳山正観寺(東正観寺)の実相院(じっそういん)跡(現菊池グランドホテル前)にあります。

□23代政隆
22代能運の遺言により、若干14歳で家督を相続し、肥後守護となりました。
大友氏の策略にはまった阿蘇惟長(あそこれなが)の企てにより、菊池家臣は政隆を廃して惟長を迎えます。隈府に入った惟長は、菊池武(たけつね)と名を改め肥後守護の職に就きました。
守護の座を追われた政隆の元には、城政元(まさもと)や隈部鎮治(しげはる)、宗隆盛(そうたかもり)などが集まりました。これに危機感を持った武経と阿蘇氏は、政隆追討に動き出します。
永正6(1509)年8月、大友親治(ちかはる)の命を受けた朽網親光(くたみちかみつ)軍と政隆軍が、臼間荘桜馬場(南関町)で激突、大友軍の大勝利に終わり、捕らわれた政隆は阿蘇氏の本拠地である矢部へ送られることとなりました。
16日夜、菊池の旧臣玉屋貞親(たまやさだ)が護送団を急襲し、政隆を首尾よく奪取、安国寺(久米一)に入ります。武経は守山城を出陣、久米原で両軍入り乱れての激戦となり、政元・鎮治・隆盛らは討ち死に、政隆は再び安国寺に入り自刃しました。この時、わずか19歳でした。墓(亀趺(きふ)碑)は、安国寺の裏にあります。

□24代武包(たけかね)
永正8(1511)年、菊池武経が菊池を去ります。当主不在となった重臣たちは、菊池家支流の詫磨武安(たくまたけやす)の子武包を当主として迎えることに決めました。
衰退の道をたどる菊池氏に対し、大友氏はますます圧力を強めていきます。永正17(1520)年、大友義鑑(よしあき)の弟重治(しげはる)は菊池の重臣たちをそそのかし、武包を追放。菊池義宗(よしむね)(後の義武(よしたけ)と改名し、肥後守護と称して守山城に入りました。
大永3(1523)年、武包は筒が岳(小岱山)で挙兵しますが、義鑑・阿蘇惟これ豊とよ連合軍に大敗し、島原に逃れました。天文元(1532)年、この地で死去したとされています。
ここに、初代則隆(のりたか)から続いた菊池氏の守護家は、ついにその名を消してしまうこととなったのです。

問い合わせ先:菊池プロモーション室
【電話】0968-25-7267

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