■同年代のなかまたちのこと(後編)
地域人権教育指導員 宮崎 篤(みやざきあつし)
(広報きくち10月号から続きます)
▽もっと早く知るべきだった
両親のことを叔母に聞いたことがありました。叔母は「あんたのお母さんの病気はいじめが原因だったとよ」と言いました。思い当たることがありました。
両親はカトリック教徒だったこともあり、当時の労働運動になじめず、会社が主導する第2労働組合に入ったのをきっかけに、周りから孤立したようです。
当時、幼稚園児だった私は、病院に勤める母と一緒に家に帰るのが日課でした。母はいつも別室で一人、暗い顔で注射器の煮沸をしていたのを覚えています。その中で母は心に変調をきたしていきました。
しかし、周りの人たちを責めることはできません。責めるべきは働く人たちを分断し、互いにいがみ合わせようとした会社側でしょう。今ならそのことが分かります。けれども、そのことをもっと早く知るべきでした。
▽粘り強く生き抜いて
同じ時期に、水俣では海に流された水銀を肩代わりして生まれた子どもたちがいました。もし、工場が私の家の近くに作られていたら、苦しみに身をよじるのは私たちの方でした。「私の体の毒をみんな引き受けて生まれてくれた。この子は宝子(たからご)です」そう言って子を抱きしめる母親は私の母だったかもしれません。
信頼するある友は今、胎児性水俣病患者の方を支援する団体の職員として、彼らと寝食を共にしています。彼が以前言ってくれたことがありました。「私は、皆さんと一緒に粘り強く生き抜いて、真実を伝え続けていく」。
生きることは伝えること、そういう日々を生きる彼もまた、部落問題に学び、生き方を考え合ったなかまの一人です。
別のある友は、幼いころ井戸水をくむのが日課でした。その肩に一家の水が託されていました。ランプの掃除が日課だった子もいます。私たちが遊んでいるときも彼らは一心に水を汲みランプを磨いていました。
水、電気、道路…、命に関わる整備を行政は彼らの住む地域だけ放置していました。友の細い肩がその重労働から解放されたのは数年後、国がその誤りを認め、同和対策事業特別措置法という法律を作ってからでした。
「伝えるべきことがたくさんある」。来年70歳になる私は最近よくそう思います。そして社会の理不尽を共に乗り越えてきた多くのなかまたちのことを考えます。真実を伝え続けねば。その根底には、人間への信頼と尊敬による差別撤廃をうたった水平社宣言があります。
人の世に熱あれ
人間に光あれ
問い合わせ先:人権啓発・男女共同参画推進課
【電話】0968-25-7209
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