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《シリーズ》南北朝・菊池一族歴史街道(12)

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熊本県菊池市

■うきは市
うきは市指定文化財(史跡)の正平塔(しょうへいとう)は、吉井町千年(ちとせ)の小江(おえ)集落の北新川(きたしんかわ)沿いの閑静な田畑の中にある石塔です。建てられたのは正平18(1363)年。中世の南北朝時代のことです。南北朝時代までさかのぼる石塔は福岡県下でみても非常に古く貴重な石造物です。
塔を建立した調衆(しらべしゅう)一門は、黒木助能(くろきすけよし)を始祖とする星野(ほしの)、黒木、川崎(かわさき)の三氏の総称で、中でも星野氏は、耳納山(みのうさん)の複数の山城を拠点として吉井周辺を支配していました。
南北朝の戦乱時には、肥後の菊池氏と征西将軍懐良親王(かねながしんのう)を奉じ南朝に尽くしました。北朝の武家側とは幾度も戦い、多くの生命が失われました。
とりわけ正平14(1359)年には、大規模な戦いが勃発します。関ヶ原合戦、川中島合戦と並んで日本三大合戦とも呼ばれる大原(おおはら)合戦(大保原(おおほばる)合戦、筑後川の戦い)です。筑後川をはさみ、両軍合わせて10万ともいわれる大軍が戦ったこの合戦は、南朝方が勝利を収めましたが、両軍最大の激戦であったため、双方ともに多数の戦没者を出しての終結となりました。南北朝の動乱の中、星野氏をはじめとする調衆も、多くの一族郎党が犠牲となりました。
この塔には、次のような銘文と梵字が刻まれています。

(願わくば此の功徳を以て普(あまね)く一切に及ぼし、我等も衆生とともに、皆(みな)共(とも)に佛道に成(じょう)ぜん)

これは『法華経』の一節で、数多の戦いで散華した南北両軍全ての犠牲者の供養を願っていることが読み取れます。この塔には、調衆の平和への願いが込められているのかもしれません。

問い合わせ先:菊池プロモーション室
【電話】0968-25-7267

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